実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『小津安二郎の反映画』(吉田喜重)[B164]

吉田喜重の『小津安二郎の反映画』読了。

小津安二郎の反映画

小津安二郎の反映画

出たときに買ったものの、途中で挫折して10年以上も放置していたが、『女優 岡田茉莉子[B1369]で言及されていたのを機会に読み直してみた。

ふたたび挫折しそうになりながらなんとか読み終えたが、文体が大仰でついていけない。ふつうの言い方をすれば、似たような感じ方や解釈をしているところも多々あるが、何を言っているのかを考える気もだんだん薄れてくる。繰り返しが多いのも嫌。『女優 岡田茉莉子』に繰り返しが多いのはダンナの影響か?

内容的にも大仰である。一映画ファンとして、「たかが映画」と言われるとムッとするが、この本を読んでいると「たかが映画だろう」と言いたくなるのを抑えられない。

吉田喜重もまた、『晩春』[C1949-01]の京都の旅館のシーンに近親相姦的な意味を見出している人で、それについて熱く語っている。しかしわたしはそうは思わない。だいたいそういうのは単なる男性の願望なんじゃないかとも思うが、わたしがそういう解釈をしないいちばんの理由は、父親役が笠智衆だから。

著者は次のように書いている。

 こうした俳優同士が他人としての男女であることによって、おのずから誘発される性的イメージと、与えられた役割が父と娘であるという制約によって、そうしたおぞましい近親相姦の妄想を禁じようとする抑圧とが、われわれ自身のなかでせめぎあい、わかちがたく共存する曖昧さこそが、まぎれもなく小津さんらしい映画の戯れであり、そのきわみであったに違いない。(p. 158)

「おのずから誘発される性的イメージ?だって笠智衆だよ?」と思いっきりつっこみたくなる。一般論としてはそういうことがいえるかもしれないが、それは父親役の俳優に依存するだろう。(年齢的なつり合いは無視して、)父親役がたとえば佐分利信なら、そういう解釈も成り立つと思う。また山村聰だと、生々しくなりすぎるのでやめたほうがいい(だからわたしは『山の音』[C1954-05]があまり好きではない←近親相姦ではないけれど)。でも笠智衆はあり得ない。わたしは笠智衆に性はないと思います。『晩春』の笠智衆月丘夢路と、『秋刀魚の味[C1962-02]笠智衆岸田今日子と結婚すると思うが、それでも笠智衆に性はないと思う。

ところで、この本を読んでわかったことがある。

 流し釣りはまぎれもなく自然の摂理が作り出す、純粋なる反復運動であった。ふたりの人間がそれを同時に試みれば、渓流の水が釣り糸を同じ速さで下流へと運んでゆくかぎり、釣り糸は同時にぴーんと張られ、釣り竿は同じ弧を描いて寄りもどされ、ふたたび釣り糸は渓流に向かって同時に投げかけられる。それは意図して行われる反復ではなく、あくまで自然に、そして偶然にも実現される反復運動であった。(p. 91)

そうなんだ…。全然知らなかった。釣りをしたこともない、釣り竿を見たこともないわたしは、そんなことは想像だにしなかった(言われてみればそうだろうと思うが、でもそもそも釣りの原理がわかってない…)。『父ありき』[C1942-01]のあのシーンは、意図的であるかどうかはともかく、同時にお茶を飲むのと同様、人間が同期しているのだとばかり思っていた。