実録 亞細亞とキネマと旅鴉

サイトやFlickrの更新情報、映画や本の感想(ネタばれあり)、日記(Twitter/Instagramまとめ)などを書いています。

『愛の予感』(小林政広)[C2007-19]

セガフレードでラテを啜ったりパネットーネを齧ったり(おなかいっぱいなのに)してから東中野へ移動。いつも暖かい渋谷から来ると、東中野は真冬である。駅前のポレポレ東中野で、小林政広監督の『愛の予感』(公式/映画生活/goo映画)を観る。

この映画がロカルノ映画祭でグランプリを獲ったとき、「少年犯罪の被害者と加害者の親同士の交流を描いたもの」といった紹介がされていた。犯罪被害者やその家族が毎日のようにテレビに出て加害者への憎しみを訴えたり、マスコミが彼らに過剰に肩入れしている現実にものすごく嫌気がさしていたので、これは絶対に観ようと思った。「主演:小林政広」で、しかもアップの顔がチラシに載っているのにはちょっとひるむが、やはり観ることにする。

『バッシング』[C2005-21]を観ているので、社会問題を直接描いてメッセージを発するような映画でないことは予想がついていた。『バッシング』の場合は、その題材から、徹底的に個人の感情という面からのみ描いていることに違和感を感じる部分もあった(id:xiaogang:20051120#p2)。しかしこの『愛の予感』は、こういった手法がぴったりはまって成功している。直接的な事件の説明はないけれど、冒頭に、加害者の母親(渡辺真起子)と被害者の父親(小林政広)のインタビュー映像があってなんとなく概要がわかり、その後は他人から事件のことを言われたりする場面もなく、個人の感情の問題に帰着させている。

事件の被害者と加害者の恋愛といえば『乱れ雲[C1967-04]だが、この映画はもちろんそういったメロドラマ的展開とは無縁だ。ただ一点、世間から隠れるように東京を去ったふたりが、苫小牧で再会するという設定のありえなさだけが、突出して松竹メロドラマ的である。しかしその再会の様子やどの時点で相手を認識したかといったところは全く描かれない。描かれるのはすでに再会したあとの日常である。J先生は、ふたりは偶然再会したのではなく、渡辺真起子が追いかけて行ったのだと言っていて、たしかにそう考えるといろんなところが論理的にはすんなりつながる。しかし映画としてはそれはあり得べきでない気がする。やはりわたしは『乱れ雲』が念頭にあるので、司葉子加山雄三が青森で偶然再会したように、このふたりも苫小牧で偶然再会したのだと思いたい(もちろん、青森と苫小牧の近さも考慮に入れている)。ちなみに、加害者と被害者の親同士の話といえば、そこが主題ではないけれども『ただいま』[C1999-30]もそうですね。

『バッシング』でも、ヒロインが同じような行動を繰り返す毎日が描かれていて、そこはけっこう好きなところだったが、この映画ではそのスタイルがさらに突き詰められていた。ほぼ同じ行動を繰り返すふたりの毎日が淡々と描かれ、そのわずかなブレが彼らの感情の変化を表す。事件がたくさん起きて、台詞がたくさんあっても、観終わったあとに「全部観た、もういい」と思わせる映画もたくさんあるが、行動はだいたい決まっており、ほとんど事件は起こらず、台詞もないこの映画は、観終わったあとに「わたしはあまりにたくさんのものを観逃してしまった、もう一度観なければ」と思わせる。画面に映るものすべて、画面の中のわずかな変化、あるいは変化しないこと、すべてに意味がある。

この映画が描いているものが、希望なのか絶望なのかわからない。チャンドラーを引用した、「あなたなしでは、生きられない。でも、あなたと一緒では、生きていく資格がない」という言葉は、彼らがこれから生きていく茨の道を表していると思うけれど、やはり憎しみだけで終わらないことは希望なのだと思う。このように思いもよらない、しかしあり得る可能性を提示してくれたことがすばらしい。

映画の話からはそれるが、ドキュメンタリーっぽい冒頭のインタビューもすごくよかった。事件が起こったときこういうインタビューが見たいなあと思わせるものだった。特に加害者の母親のほう。実際こういうインタビューが放送されたら、「加害者の親のくせに逆ギレしている」とかバッシングを受けそうだが、わたしは何度も頷きながら観た。「インターネットが悪いっていう人もいるけど、どう悪いのかわからない」(そうだ、そうだ、説明してみろよ)とか、「母子家庭だからってふつうのおうちと変わりません、ふつうの親子でした」とか。極めつけは、「やはりゆがんだ日本の社会がこういう事件を生んだのでしょうか」という問い(ここ笑うとこだよね、と思ったが、誰も笑っていなくてがっくり)に対して「そういう難しいことを言われてもわかんないんですよ(怒)」(いや、難しいんじゃなくて、そもそも意味がないんだよね)(以上、台詞はうろおぼえだから実際とは違うと思います)。被害者の父親のインタビューも、自分の中での矛盾を解消できない気持ちや納得いかない感じが素直に出ていてよかった。今のテレビだと、「犯人が憎い、親も悪い、死刑しかない、俺たちは悪くない」みたいに絶叫するのしか放送されないけれど(違うかもしれないが、明らかにそういう印象がある)、そんなのばっかり放送しても絶対に何の解決にもならない。

さて、『イワン・デニーソヴィッチの一日』(ソルジェニーツィン)でも読むとするか。

今年の映画はこれでおしまいかも。久しぶりにとんきでひれかつを食べて帰る。