実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『鳥屋(The Bird House)』(邱涌耀)[C2006-07]

空き時間は、セガフレードカプチーノを飲んで柿タルトを食べる。今日の二本目、映画祭六本目は、邱涌耀(Khoo Eng Yow/クー・エンヨウ)監督の『鳥屋』(公式)。これもアジアの風の「マレーシア映画新潮」の一本。

舞台はマラッカの保存地区にあるショップハウス。ここでアンティーク・ショップを営もうとする兄と、鳥屋(ツバメを飼育してツバメの巣をとるところ)にしようとする弟とを描いた映画。冒頭、シンガポールから帰省した兄がタクシーで家に帰るのだが、ここで「マラッカっぽい街並みだな」と思ったら、本当にマラッカだったので嬉しくなる。マラッカには二度行ったことがある。旧市街は狭いので、このショップハウスがある通りを何度か歩いているに違いない。ショップハウス大好きの私としては、ショップハウスが舞台ときけば狂喜乱舞せずにはいられないし、中まで見られて嬉しい映画だった(この映画に出てくるアメリカ人(推定)みたいに、ずうずうしく人の家に入って見せてもらうなんてできない)。兄が訪ねる近所のアンティーク・ショップは、中庭に面してテーブルが置かれていて、そのたたずまいがすごく素敵だった。

この映画がもしフィルムで撮られていたら、マラッカのゆるい空気がもう少し感じられたに違いない。しかしDVのせいか、いまひとつ臨場感がなかったのが残念だ。『グッバイ・ボーイズ』もDVだったし、マレーシア映画の躍進、特に非マレー系監督の活躍はおそらくDVがあってこそだと思うので、フィルムで撮ることを求めるのは酷だろうと思う。でもやっぱりフィルムだったらね。

この映画で扱われているのは伝統建築の保存の問題である。建築好きの私も時々そのことを考えるが、結論は出ない。どんどん壊して再開発するのにはもちろん反対で、基本的には保存すべきだと思うし、政府が保存地区や保存建築を指定するのは正しいことだと思う。しかしどう保存するかが問題だ。建物というのは、それが作られた目的に沿って使われ続けてこそ、その魅力を最大限に発揮する。一方で、民家であれば、住む人が維持していくためには何らかの補助が必要だし、不便も我慢しなければならず、簡単なことではない。一番手っ取り早いのは、少し手を入れて、お店、レストラン、ホテル、博物館などにすることだろう。これならば、そこから利益を上げたり税金を投入したりして維持することもできるし、多くの人に中を見てもらうこともできる。実際マラッカには、こういったレストランやホテルがいくつかできており、私も前回そういうところを利用した。上海などでは、近代建築をリノベーションした法外な値段のレストランができているらしいが、少なくとも1999年のマラッカでは良心的な値段だった。しかしこれも、本来の使用目的とは異なるし、利益や利便性を優先すれば大幅に改装されてしまうこともある。移築して保存するという方法もあるが、テーマパークの一部になって使用されなくなった建物は、その魅力を失ってしまう。建物は本来、古びていくことそれ自体が魅力である。できるだけ本来の目的で使い続け、老朽化してしまったらいつかは取り壊すしかないとも思う。そのために私たちにできることは、できるかぎり記憶に留めておくこと、それを語り継ぐこと、写真やフィルムの形で残すことしかないのかもしれない。それ自体が目的の記録フィルムではなく、この映画のように作品の一部として残ることは、最も幸福な保存方法のひとつといえるかもしれない。

『鳥屋』では、兄弟のお父さんはいつも黙ってごはんを作ったりごはんを食べたりしていて(これがなかなかいい感じである)、家の用途については何も語らない。映画の最後の夢と思われるシーンでは、兄が帰省するとそこは廃墟となっている。監督も、必ずしも保存しなくてよいと考えているのだろうか。

建物の保存以外に興味深かったのは、マレーシア華人にとっての中国の位置づけの変化である。中国は父祖の地であり、移民一世にとってはいずれ帰る場所であっただろう。しかし華僑が華人になり、華裔になるにしたがい、現地に根づいていくという流れがひとつにある。一方で、反共政策をとっていたマレーシアにとっては遠い場所だった中国が、改革開放によって近い国になってきたという流れがある。中国はいまや帰るところではなく商売をしに行くところであり、この映画にも出てくるように、工場の移転や労働力の流入によって自分たちの仕事を奪う脅威でさえある。このように中国イメージは変わってきているし、当然それは世代間のギャップを生んでいるだろう。そういったものもこの映画には盛り込まれている。

この映画の中ではけっこう北京語が使われていたと思うが、最初何語かわからず、よくよく聞いてみたら「なーんだ、北京語じゃん」ということがよくあった。すーすー言う南方訛りなら多少の免疫があるが、この映画の北京語はマレーシア英語と同様、抑揚がないのだ。新しい発見である。でもこんなので喋られたらたまらない。わからなすぎる。

上映後は、邱涌耀監督をゲストにティーチインが行われた。残念ながら言語は英語だったので、監督の北京語に抑揚があるかどうかはわからなかった。