実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『十三の桐(十三棵泡桐)』(呂樂)[C2006-08]

東京国際映画祭第四日も朝から六本木へ。今日の一本目、映画祭七本目は、コンペティションの『十三の桐』。監督は呂樂(ルー・ユエ)で、これまでに『趙先生』が公開されているが観ていない。映画は、少し荒れている、あまりレベルの高くない学校を舞台に、ナイフに興味を持つボーイッシュなヒロイン、何鳳とそのまわりの高校生たちを描いたもの。ロケ地は四川省成都市らしい。

この映画の魅力は、なんといっても何鳳を演じる劉欣(リウ・シン)である。ボーイッシュないでたちが似合っていて、世の中に対して反抗的なきりっとした表情のなかに、内面のナイーヴさが垣間見える。だから止まっていてもとてもいいのだが、一方で彼女はいつも走っていて、その身の軽さ、身のこなしも魅力的だった。最近、映画の中の想定年齢に対して、俳優の実年齢が高すぎるものが目立つが、この映画では両者が一致している点が成功の大きな要因だと思う。

劉欣を見ていて思い出したのは『あの夏の日の浪声』[C2002-42]という台湾映画。同性愛ものの青春映画だが、観たときの感想(id:xiaogang:20050904#p1)に、「ボーイッシュなほうの女の子の顔があまりにおばさんくさいので、いまいちのれなかった」と書いている。劉欣みたいな子が演じていたらすごくぴったりだったのに、と思う。

『十三の桐』は、全体としては、まずクライマックスが冒頭にあって、過去に話が戻るという構成と、最後に後日談がある点がよくない。こういう映画を観ると、『藍色夏恋[C2002-03]のすばらしさがよくわかる。あの映画の優れた点のひとつは、後日談がないことだ。

『十三の桐』の背景には、中国の急激な社会の変化があり、登場する少年少女たちは家庭の問題を抱えている。学校は、問題が起こると教師ではなく警備員が飛んでくるようなところである。教師は生徒を大学へ入れることが教育だと考え、問題児は更生させることなく処分される。子供たちは反抗しながらも、学歴社会で生き残るため学校にしがみつかざるを得ない。そういったいろいろな背景が、子供たちに影響を与えているという面もあり、一方で環境とは別に、若さゆえの不安定さによっていろいろと不可解な行動をとったりもする。そのあたりの絡み具合がいまひとつすっきりしておらず、いろいろなものを盛り込んで消化不良になっている印象を受けた。挿入される騎士のイメージは、彼女の経験が「糧になるか砂になるか」ということを問うているのだと思うが、ちょっと中途半端な感じがする。学校の雰囲気や街の様子は、けっこう魅力的に撮られていた。

それから、これは「オナラ映画」だった。以前、『ある子供』[C2005-28]と『ブレイキング・ニュース』[C2004-37]を観て「オナラ映画の日」というタイトルにしたら(id:xiaogang:20051210)、時々「オナラ映画」とか「オナラ」とかのキーワードで検索してくる人がいる。詳細はチェックしていないが、「オナラ映画」に関する記述を定期的にウォッチしている人がいるのか、それとも「オナラ映画」について検索しようという人が世の中にはたくさんいるのか。謎である。