昨日折りたたみ傘が壊れてしまったので買っておきたいのだが、六本木には無印良品がない(使えない街だ)。次との間に時間の余裕があるで、恵比寿まで買いに行くことにする。さっさと傘を買って、ひまわりでカルビ弁当を食べる。たまにはちゃんとしたごはんが食べたいよね。
今日の二本目、映画祭八本目は、アジアの風の『私たちがまた恋に落ちる前に』(公式)。二年前の東京国際映画祭で『美しい洗濯機』[C2004-09]を観た李添興(ジェームス・リー)監督の新作で、「マレーシア映画新潮」の一本。
映画は、妻が突然蒸発してしまった男(蔡志強)のところに、妻の愛人だったという男(張子夫)が訪ねてきて、お互いに彼女の思い出を語り合うという話。自分の思い出を相手に語ることによって彼女の像を相手と共有すること、あるいは相手の話によって彼女の像の欠落部分を埋めることは、彼女のことを忘れないための行為ではなく、彼女との思い出を過去のものにし、忘却し、乗り越えるための行為として描かれているように思われる。やがて二人は、彼女の初恋の人への手紙を発見し、彼を探しに行くのだが、ロードムーヴィーっぽくなるそのあたりから、妙なおかしさが漂いはじめる。
蒸発した妻を演じているのは、『美しい洗濯機』で洗濯機の精を演じた林秀眉(エイミー・レン)。彼女はどこに消えたのか。もちろん洗濯機の中だ。夫の回想の中で、結婚準備の買い物などをするシーンがあり、彼女が洗濯機を覗いていたのには笑ってしまった。
舞台はKL(クアラルンプール)かなと思うが、マレーシアらしさは微塵もない。デジタルで、大部分がモノクロで撮られているが、その無機質な感じが、このマレーシアっぽくない都会の雰囲気と、人間関係の不確かさのようなものをうまく表している。言語はほとんどが北京語。「はい」と言うときに、夫は‘是兒’と言っていた。発音も北京風。マレーシア映画で聞くなんて驚きだが、マレーシアでも使うものなのだろうか。
上映後は、マレーシア映画についてのシンポジウムがあった。司会は国際交流基金の石坂さん。出席者は、この映画で愛人を演じていた張子夫(ピート・テオ)、この映画のプロデューサーで『愛は一切に勝つ』の監督・陳翠梅(タン・チュイムイ)、『グッバイ・ボーイズ』の監督・バーナード・チョーリー、『鳥屋』の監督・邱涌耀(クー・エンヨウ)。司会は日本語、出席者は英語だったが、英語-日本語通訳(かのうという人だった)に対してひとこと言いたい。別の言語で行われたやりとりを、一部の観客のために英語に訳す場合(映画祭で英語の通訳が出てくるのはこの場合が多い)は、多少の省略はあっていいと思う。対象者が少数だし、現地の言葉を知らずに来た以上、多少の不利益はしかたがないと思うからだ。しかしこのシンポジウムの場合は違う。ここでは、観客に伝える以前に、通訳は質問者と回答者の間をつなぐ存在であり、通訳が語らなかったことは相手には伝わらない。この通訳の場合、質問がすべて伝えられないこともあったし、固有名詞などの具体的な内容が「○○など」と勝手に端折られることもあったし、誤訳もあった。マレーシア映画事情に通じた通訳を出せとは言わないが、付け足しの英語通訳の場合とは違うという自覚をもって、ちゃんとやってほしいものである。