実録 亞細亞とキネマと旅鴉

サイトやFlickrの更新情報、映画や本の感想(ネタばれあり)、日記(Twitter/Instagramまとめ)などを書いています。

『冬に生まれて(二冬)』(楊瑾)[C2008-47]

ポレポレ東中野で開催されている中国インディペンデント映画祭2011(公式)で、楊瑾(ヤン・ジン*)監督の『冬に生まれて』を観る。

山西省を舞台に、19歳の二冬が、教会の学校へ行ったり、駆け落ちして働きに出たり、結婚して子供を持ったり、出生の秘密を知って悩んだりしながら、山間の故郷と外の世界を行ったり来たりする話。少し前の映画は、ここから出て行けない閉塞感みたいなものを描いていることが多かったけれど、二冬はわりと簡単に出て行く。少し前の映画は、出て行った主人公は何がなんでも故郷には帰らないことが多かったけれど、二冬はあっさり戻ってくるし、親や親戚に簡単に甘える。少し前の映画は、そんなことをしながら主人公が成長するという話が多かったけれど、二冬はぜんぜん成長しない。そんなところに、少し前とは違う、いまの青年をみる思いがする。

ただ、故郷を出るたびに、出ていく距離が少しずつ長くなっていく。この作品は2時間半もあって、二冬があまり成長しないから、だらだらと間延びしたような印象を受けるのだけれど、この間延び感そのものが二冬の閉塞感や焦燥感を表していると同時に、彼の永久に終わらないようなモラトリアムを表しているようにも思う。最後の彼の行動は、今度こそ故郷に決別したようにもみえる。しかし、「できるだけ遠くへ」と、前と同じような台詞が繰り返されるところからしても、またあっさり戻ってくるんじゃないかとも思う。

中国では結婚届を出す前に子供が生まれると戸籍がもらえないらしく、二冬もそのために養子に出されているし、彼の子供もまわりから「養子に出したらどうか?」と言われる(二冬は拒否する)。何世代にもわたって同じ悲劇が繰り返されることにやりきれない思いがする。生まれた日付をごまかしたり袖の下を渡したりすればなんとかならないのかという疑問もあるが、悲劇的でもあり不思議でもあるのは、若いふたりが勝手にどこかで子供を生んだのではなく、儀式としての結婚はきちんとやっているのに、法律的な結婚はおろそかにしているという点だ。まわりにはわかっている大人もいるはずだし、結婚式をとり行ったりして村の生活の中心的な存在である教会も、そういうことをちゃんと指導すべきではないだろうか。

また、この映画には、役人や警察が罰金を課すシーンが何度かあった。それが正規の罰金なのか、いったい誰の財布に入るのかはよくわからない。こういうのを見て、中国の経済成長の歪みだとかなんとか人ごとのように言うのは簡単だ。しかしこれは決して人ごとではなく、独立採算制だの税金のムダ削減だのの行き着く先なんじゃないかと思う。公務員をたたくのが正義みたいな風潮を見て感じる、お金にならないサービス、弱者のためのサービスがどんどんなくなって、何でもお金の社会になるんじゃないかという不安を裏打ちするかのような映画でもあった。

それから、炭鉱を閉鎖したおじさんが、「山西省には映画監督が多いらしいから、今度は映画で儲けたい」とか言っていたのが笑えた。楊瑾監督もそうだし、賈樟柯(ジャ・ジャンクー/ジア・ジャンコー*)を筆頭に山西省出身の監督はたしかに多いが、ぜんぜんお金にはなりそうにない。あ、でも寧浩(ニン・ハオ*)監督がいるなあ。