実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『無用』(賈樟柯)[C2007-14]

天龍で餃子を食べたあと、ふたたび東京国際フォーラムへ。今日の2本目は、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の新作『無用』。ファッションをめぐるドキュメンタリーである。

まず、縫製工場で働く労働者たちを横移動でとらえたショットで始まる。舞台は、広東省珠海市にあるブランド服の工場。裁断やミシンがけ、商品のチェックといった労働から、食事や医務室での相談の様子まで、労働者たちの一日の様々な面が淡々と綴られている。真剣に働く様子に心を動かされるし、いかにも中国的な、ぶっかけごはんを立って食べる光景が微笑ましい。

この工場で作られている服が“EXCEPTION(例外)”というブランドのものであることを見せて、そのデザイナーである馬可を主人公とした第二部へとつなげる。彼女は“EXCEPTION”のような大量生産の服に疑問をもちはじめ、手作りのブランド“無用”を立ち上げたらしい。その“無用”のコンセプトが語られる合間に、彼女のアトリエや、パリでのコレクションの準備の様子が紹介される。この映画がアーティストを取り上げたドキュメンタリー・シリーズの一本であることからいえば、この馬可がこの映画の主人公なのだが、実はこのパートがいちばん魅力がうすい。ひとつには、彼女の言っていることがいかにもいまはやりのスローライフという感じだから(スローライフに反対なわけではなく(スローワーク推進運動実施中)、それほど新鮮に感じられないということ)。もうひとつは、わたしたちは第一部で作り手の顔を見てしまっているから。たしかに、決められたパートを流れ作業でこなしているだけかもしれないけれど、真摯にお洋服を作っているとろを見ると、別にこれでいいんじゃないかと思ってしまう。

ふつうの人々の暮らしからインスピレーションを得るという馬可が旅に出て、彼女の車が偶然のように一人の男に遭遇すると、彼女は画面から姿を消す。そしてキャメラはその男を追いはじめ、一軒のリフォーム店にたどりつく。第三部の舞台は、賈樟柯の故郷である山西省汾陽市。町の仕立て屋やリフォーム店の日常、そこで働く人々や訪れる客たちが映し出される。ブランドものなどとは縁のない、庶民や炭鉱労働者たちだ。このあたりから急に画面は生き生きとしはじめ、第一部と第二部は第三部のためのイントロダクションであり、実はこの第三部が本篇なのだと気づかされる。

汾陽では、廣東から来る安い既製服によって、仕立て屋が廃業に追い込まれている。営業しているところも、仕立てよりも既製服のリフォームが多いようだ。痛んだ服を直して着る人もいれば、新品の既製服を合うように直す人もいて(タグをつけたまま持ち込むところがとっても中国的)、そこでは作る(直す)人と着る人とのコミュニケーションがかろうじて保たれているという面もある。また一方で、安い既製服が、人々が手軽にいろいろな服を着ることを可能にしているという面もある。このパートの主役は、元は仕立て屋だったという炭鉱夫の夫婦だ。安い既製服は、夫の仕立て屋の仕事を奪ったものである。また一方でそんな既製服のひとつが妻に幸福をもたらしてもいる。様々な矛盾を引き受けつつ魅力的に微笑むこの夫婦は、この映画を成功に導いた功労者である。

賈樟柯映画としては久しぶりの汾陽だが、その土ぼこり、あるいは炭鉱でのフリ○○洗濯シーン(別に全裸主夫とかではなくて入浴と同時なだけ)は、どちらかといえば、この映画でも助監督を務める韓傑(ハン・ジエ)の『ワイルドサイドを歩け』[C2006-26]を連想させた。賈樟柯の描く汾陽の町はあいかわらず魅力的だが、店の中にアーチ型の壁があったり(拡張したのか?)、人々が住んでいる建物も魅力的だった。

全体としては、(特に前半)やたらと横移動が多かったのが印象に残る。また、時々、「キャメラのほうを見ちゃいけないって言われたんだけど、なんか気になるなあ」みたいな、電車で前の席にヘンな人がいて好奇心を抑えきれないんだけれど怖くて見られないみたいな、そういうムズムズした表情の人がいるのも気になった。

上映後、賈樟柯監督と、本作ではプロデューサーを務める趙濤(チャオ・タオ)をゲストにQ&Aが行われた。趙濤の、『長江哀歌』[C2006-21]での完全おばさんモードは微塵も見えないかわいさは、さすが女優だと感心した。最近この二人は、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)と李康生(リー・カンション)のごとく、もれなくセットになっているように思われる。