実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『消えゆく恋の歌(郎在對門唱山歌)』(章明)[C2011-12]

TOHOシネマズ日劇で、章明(チャン・ミン/ジャン・ミン*)監督の『消えゆく恋の歌』(東京・中国映画週間←このあらすじは少し違うと思う)を観る。第24回東京国際映画祭の提携企画、2011東京・中国映画週間の一本。

東京・中国映画週間というのは、国策くさい映画とか、政府が考える中国のいいところや進んだところを描いた映画とか、国内でヒットした商業映画とかがかかる映画祭というのがわたしの認識である。だから、ここで章明の映画がオープニング作品として上映されるというのはかなりの驚きであり、期待よりむしろ不安のほうが大きかった。去年の徐靜蕾(シュー・ジンレイ*)の映画の例もあるし、章明も、転向したり堕落したり才能が枯渇したりしたんじゃないだろうかと危惧した。しかし、そんな心配は無用だった。『結果』[C2005-25]などとは違い、ちゃんとストーリーがあってわかりやすく、上海国際映画祭で受賞もしているから選ばれたのだろうか。

舞台はいつものように水のほとり。冒頭それを見ただけで、もう「ああ、だいじょうぶ」と思ってしまった。あいかわらず水と血の映画である。今回の舞台は紫陽(陝西省安康市紫陽縣)。川は、長江の最大の支流である漢江(漢水)。山歌と呼ばれる陝西民歌をバックグラウンドに、少女の初恋が描かれる。

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二木てるみみたいなヒロイン、劉小漾(呂星辰(リュー・シンチェン*))は、音楽学校をめざす高中生。公務員の父親が自宅で開いたパーティで、地元の劇団で山歌の指導をしている北京帰りの馮岡(傑珂(ジエコー*))を見かけ、あこがれを抱く。ちょうどそのとき、父親とその上司のあいだでは、上司の息子の張學鋒(孫凱(スン・カイ*))と小漾とを一緒にさせようという謀議が行われている。張學鋒は、人はよさそうだがデブで愚鈍。未来ある女の子の婿候補としては、かなり不足である。

やがて馮岡は小漾の家庭教師になり、父親の心配をよそにくっつき、音楽学校に入学した小漾との遠距離恋愛も乗り越え、小漾は卒業して馮岡のいる地元劇団に就職する。ふたりの恋愛は順調のように見えるが、小漾の前にはことあるごとに張學鋒が現れ、結局彼女はこのデブから逃れられないという、一種の恐怖映画である。

小漾のしあわせを揺るがすのは、張學鋒だけではない。まずは、馮岡が表姐(従姉)と呼んでいる、亡くなった母親の世話をしていた女性。いつも不機嫌そうに小漾に接する彼女の存在は、最初から不気味な空気をまとっているが、最後にその理由が露呈する。それから、もしかしたらそれと対をなすかもしれない馮岡の顔。小漾が紫陽に戻ってから、彼の顔はなぜかいつも不機嫌そうでうかない。そして水。この町は、いたるところから川が見える。家も川に面していて、窓の外を川が流れている。その水のヒタヒタという感じが、タダゴトではない雰囲気を醸しだしている。このあたり、いつもの章明である。

これらが組み合わさり、絡みあいながら、物語は来るべき結末に向かってゆっくりと進んでいく。まるでヒタヒタと水が流れるように、小漾に向かって不幸が押し寄せてくるのであった。

上映前のオープニングセレモニーは、開始が15分も以上遅れ、しかしセレモニーは短縮もせずに行われ、無駄に長くて疲れた。ゲストは章明、李前寛(リー・チェンクァン/リー・チエンクワン*)、肖桂雲(シャオ・グイユィン/シアオ・グイユン*)の3人の監督と、徐若瑄(ビビアン・スー/シュー・ルオシュエン*)、董潔(ドン・ジェ/ドン・ジエ*)、呂星辰、江一燕(ジャン・イーイェン/ジアン・イーイエン*)、竇驍(ショーン・ドゥ/ドウ・シアオ*)の5人の俳優。呂星辰は女優陣でいちばん地味ないでたちで、董潔はなぜかずっとこわい顔をしていた。来賓の栗原小巻が、修飾語と抽象概念だらけで中身ゼロな中国風挨拶を完全に身につけていて、ある意味感心した。今度なにかで挨拶しなければならなくなったら、このスタイルでいこうと思った。