実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『一年の九日(Девять дней одного года)』(Mikhail Romm)[C1961-41]

ユーロスペースの「Image.Fukushima vol.02」(公式)で、ミハイル・ロンム監督の『一年の九日』を観る。3.11のあとでDVDを買ってまだ観ていなかったので、先にスクリーンで観られてよかった。

一年の九日 [DVD]

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ぐるぐるまわるモスフィルムのオープニングに胸がときめく、久しぶりのソ連映画は、端正で美しいモノクロ画面に圧倒された。そしてこの映画の結論は、「朝食のしたくは旦那さんがすべし」ということである。

映画は、ノヴォシビルスクの原子物理学研究所を舞台に、3人の科学者、グーセフ(アレクセイ・バターロフ)、クリコフ(インノケンティ・スモクトゥノフスキー)、リョーリャ(タチアナ・ラヴロワ)の研究と恋愛と友情を、一年間のうちの九日だけを取り出して描いたもの。原子力のエネルギー利用を研究しているグーセフが、実験中の二度の被爆によって命の危険に陥る物語であると同時に、三角関係や結婚生活の物語でもある。グーセフは決定的ではないにしてもそこそこの業績を残すが、決して英雄的な科学者の物語ではなく、日常的でリアリティのある、非常に人間くさいレベルで描かれている点がすばらしい。

グーセフに関してはそれほど人間くさいところは描かれないが、クリコフとリョーリャについてはたっぷりと描かれている。映画のはじまりは、グーセフとの交際に疲れたリョーリャがクリコフとの結婚を決め、それをグーセフに告げるため、クリコフがノヴォシビルスクに向かうところ。ちょうどそのときにグーセフが被爆してモスクワの病院に入院したため、ふたりはすれ違って言えずに終わるのだが、そのあとのクリコフのグダグダぶりがすごい。グーセフの退院日に病院へ行くものの、学会があるからと言って会うのを避けようとし、結局3人で食事に行くと、知り合いを見つけて席を外し、とにかく肝心の話を避けようとする。結局リョーリャが自分で話した結果、彼女はグーセフとの結婚を決めてしまう。まあ、アレクセイ・バターロフとインノケンティ・スモクトゥノフスキーを見比べただけで、この結論は目に見えているのだが。

幸福な結婚式の次に描かれる一日は、リョーリャが「眠いのに、起きて朝ごはんつくるのイヤイヤ」と悶絶するシーンで始まる。共働きだからあたりまえが、彼女は一年で成果を出さないといけないグーセフを助けるために結婚したので、「わたしは悪い奥さんだわ」と思い悩む。でも同時に、「女としてはけっこうイケてるわ」とか自己評価するところがいい。どこかの国の凡庸な映画だと、「結婚してラブラブなふたりだったのに、夫の被爆で引き裂かれてしまう、1億人が号泣した感動作」になってしまったりするが、これはそうはならない。グーセフは毎日遅くまで研究に没頭し、すれ違い気味の生活で、愛し愛されてしあわせというのでもなく、すごく夫の役に立っているというのでもなく、リョーリャは「結婚ってつまらない」などと思ってしまう。

最後の九日めは、グーセフが骨髄移植を受ける前日で、病院にはリョーリャもクリコフも来ている。まだ人体実験できるレベルではないと医者が語るので、たぶんグーセフは死んでしまうだろう。そのあと、リョーリャとクリコフは再婚してしまうかもしれない。でも映画は手術も死も描かない。前日の夜の、とてもとても粋なシーンで終わる。こんなに粋なラストシーンは滅多にみられるものではない。悲しい話なのに、幸福感にあふれている。出てくるイラストがまたすばらしい。

ところで、映画に出てくる研究設備や研究成果などは、どのくらい現実に即しているのだろう。研究所のシーンはセットなのだろうか。当時としては、けっこう国家機密にふれるような微妙な内容だと思うが、判断できるほどの知識をもちあわせていないので、専門家の解説を聞きたいものである。

地震原発関連の映画が上映されるこの「Image.Fukushima」という企画では、『ストーカー』[C1979-01]、『そして人生はつづく[C1992-46]、『生命 - 希望の贈り物』[C2003-15]といった、優れた映画がたくさん上映されている。今回はこの映画しか観ることができなくて残念だ。