実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『ノルウェイの森(Norwegian Wood)』(Tran Anh Hung)[C2010-42]

109シネマズMM横浜で、トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』(公式)を観る。どのくらい混むのかと思っていたが、それほどでもない。

言うまでもなく、村上春樹の小説の映画化である。原作は、村上春樹作品のなかでは特別好きというわけではないが、何度か読んでいて最近も読み返したばかり。今回の鑑賞では、原作がどのように映画化されているかというところにまずは気を取られていたので、原作と離れて映画そのものが何を伝えて何を感じさせるかというところまでは鑑賞できていない。

そのような前提でいうと、原作のしんとした空気感みたいなものは出ていたと思う。なんといっても撮影が李屏賓(リー・ピンビン)なので、画は圧倒的に美しい。けっこうアップが多かったけれど、長回しが多くてよかった。寮やアパートなど古い建物のたたずまいもいい。40年ほど前の雰囲気を再現しようとしているわけだが、テーマパークみたいな非現実的なレトロ感ではなく(最近そういう映画が多いので)、適度なリアリティがある。

しかしながら、登場人物の配役と演技には疑問を感じずにはいられない。主人公のワタナベ=松山ケンイチはよい。たぶんこれ以上合う人を見つけるのは難しいだろう。ただ、ファッションがちょっと違うと思った。ワタナベくんはもっとアイビーっぽいファッションで、ぜったいにダッフルコートを着ていなければならない。

問題なのは二人のヒロインである。わたしが指摘するまでもなく、直子は静で、緑は動だ。でもこの映画では、必ずしもそうはなっていない。直子は意外に雄弁で、声を荒げるシーンすらあるが、そんなのはあってはならないことである。一方の緑は、ふだんはもっと元気にはじけていてほしい。そうであるからこそ、沈んだときとの明暗のコントラストも印象に残るというものだ。

配役的に最大の問題は直子=菊地凛子。全体に大造りで、顔もごつくて派手すぎるので、直子に求められるべき繊細さや透明感が感じられない。特に後半はその顔に我慢できず、アップが死ぬほど苦痛だった。わたしは彼女を見るのははじめてなので、素の彼女がどんなでほかの映画でどんな演技をしているのか知らない。でも、「役をもぎ取った」みたいな報道を聞いたときから、イヤな予感がしていた。自分のもっている雰囲気みたいなものを、演技力で変えられると思うのは傲慢だと思う。トラン・アン・ユンは、彼女は直子に合わないと思った自分の勘を信じて、売り込みに屈するべきではなかった。

次に緑=水原希子も、わたしのイメージには合っていない。緑はもう少しはじけた感じで、なかなかぴったりの人は思い浮かばないが、デビュー当時の牧瀬里穂や李康宜(リー・カンイ)がわりと近い感じ。キャラクター的には、『月は上りぬ』[C1955-12]北原三枝

水原希子の何がいちばん悪いかというと、しゃべり方である。緑の魅力の多くは、そのユニークな発言内容に負っている。この映画のなかには、原作からほぼそのまま取ってきた長い台詞が二箇所あるが(愛とは何かについてと、今したいことについて)、それをあんなに淡々と語られては、おもしろくも何ともない。これらの台詞は、「あなたがこう言ったら、わたしがこう言って」みたいなお芝居風のものなので、ちゃんとあなたになったりわたしになったりして、適度な間も入れながら語らないとダメである。また、緑の台詞はいやらしいことや下品なことを照れずに堂々と言うところが魅力だが、水原希子の台詞回しにはまだちょっと照れみたいなものが見える。

レイコ=霧島れいかとハツミ=初音映莉子については、小説ではうまく思い浮かべることができなかったので、具体的なイメージを与えてもらえてよかった。特にレイコは、男っぽくてパサパサした感じの女性を連想しつつ違うなと感じていたのだが、映画のレイコさんはけっこうしっくりきた。ハツミについては、シックな女子大生というものを想像することができなくて、小説からはおばさんを連想しつつ違うなと感じていたのだが、映画は「まあこんなもんかな」という感じ。でもハツミというキャラクターは、そもそもわたしにはかなり理解不能である。

上下巻の長い小説を2時間強の映画にするにあたって、何を取って何を捨てるかについては、「ここは残すべきだったのに」と思った箇所が最低3箇所くらいはあった。でもそれについては、もう1回くらい観てから(映画館にまた行くという意味ではない)再考することにする。