実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『樺太1945年夏 - 氷雪の門』(村山三男)[C1974-28]

樺太 1945年 夏 - 氷雪の門』(公式)を観るため、シアターN渋谷に移動。「君子危うきに近寄らず」といいますが、こんな胡散くさい映画は無視しておくのが無難である。(広義の)外地を扱った映画は何であれ観ておきたいが、サハリンロケしているはずはないし…と迷う。『俺は、君のためにこそ死ににいく』の監督がチラシにコメントを書いているのを見たときは、これはもうやめようと思ったが、「少ない資料の中から樺太の町を作り上げた木村威夫の美術は圧巻である」の一文に惹かれて観ることにする。タンバも出てるしね。

ソ連の悪徳ぶりと事件の悲劇性を強調した映画だろうという予想はほぼ当たったが、特別右側のにおいがするというわけではない。それより何より、映画としてヒドい。盛り上がりまくる音楽に乗せて稚内にある氷雪の門を紹介する冒頭から、これはダメダメだなと思って後悔しはじめた。樺太ではポツダム宣言受諾後もソ連との戦闘が続き、その中で多くの民間人が犠牲になり、真岡で9人の女性電話交換手が集団自決した。この事実を、とにかく感情的に、感傷的に描いた映画。大勢の生存者の証言にあった様々な出来事を、少数の登場人物に凝縮させて脚色していると思われ、紋切り型というか、通俗的な演出を駆使したドラマチックなシーンがひたすら続く。ソ連が参戦すると花がはらりと散り、おかあさんは突然倒れる。電話をかけてきた人は電話中に撃たれる。爆撃は南田洋子の息子たちを殺し、歩き疲れた栗田ひろみの母親は発狂する。悲劇映画だけれど、笑うところ多数。たぶん30箇所以上笑った。もちろんガハハ笑いではなく、冷笑、苦笑の類い。

いちばんすごいのが、ヒロイン・二木てるみの自決シーン。夫だか婚約者だかと楽しくすごした思い出が脳裡に浮かぶという、究極の紋切り型。しかも、草原を駆け回るスローモーションというベタすぎる内容。さらにすごいのは、満面の笑みを浮かべるこの男が若林豪だということ。クライマックスだけど大笑い。

最後まで仕事を放棄しないという彼女たちのワーカホリックぶりも、高度経済成長直後の1974年においては賞賛の対象だったかもしれないが、今となってはむしろ滑稽である。

「もう入口までソ連兵が来ました」とか言って自決を決める彼女たちだが、一刻の猶予もないはずのときに青酸カリを囲んで大泣きしたりして、えらくグズグズしている。それなのに一向にソ連兵は来ないばかりか、気がつくと爆撃の音も銃撃の音も止んでいる。彼女たちが死体の山になっても、やはりソ連兵は来ない。ここでの正直な感想は、「死ななくてもよかったのに」。実際は、この日勤務していたのは9人ではなく、自決しなかった交換手もいて、殺害されることも強姦されることもなく助かったらしい。この映画では、もちろんそういう都合の悪い部分は描かれていない。

そもそも、自決組のリーダーである二木てるみは、樺太が故郷だの交換手の使命だのともっともらしいことを言っているが、要は樺太に男がいるから樺太を離れたくない。彼は国境の前線にいるから、樺太が戦場になったいま、おそらく死ぬだろう(ところが死なないんだな、これが。若林豪おそるべし)。だから内地へ行くくらいなら、樺太で死んでもかまわない。そう思ったであろう彼女は、自分の死にとっての最高の舞台を用意した、ともいえる。道づれにされたほかの女性たちはいい迷惑。

この映画のなかでいちばん恐いのは、戦争でもソ連軍でもなく、集団ヒステリー的に女の子たちの意見がひとつにまとまってしまうことだ。残留を決めるシーンもそうだし、自決を決めるシーンもそう。異なる意見の表明も議論もない。うっとうしい大泣きのうちにみんな興奮状態になり、二木てるみの思うままになってしまうのである。こういうことは今でも簡単に起こり得るが、当時の風潮や教育、先の見えない異常な状況などがそれに拍車をかけたであろうことは容易に想像できる。しかしながら、この映画にはそれに対する批判的な視点は見当たらない。

チラシには「空前のスケールで描かれた平和への願い」と書かれているが、反戦的でもなく、平和への願いは特に感じられなかった。仮に製作者が平和への願いをこめたとしても、単に戦争は悲惨だとか犠牲者(もちろん自分たちの側の)がかわいそうだとかいうだけの戦争映画はもういらない。

チラシにはまた、「語り継がなければならないこの史実」とか、「なぜ彼女たちは死を選ばなければならなかったか」とか書いてあるが、こんな感情的な記述は史実とは言い難いし、なぜこういうことが起きたのかを冷静に分析するような映画でもない。戦勝国とはいえ非常に犠牲が大きかったソ連は、あちこちでなりふり構わず利益を回収しようとしていたし、日本は日本で、戦争に負けたとたん、(広義の)外地のことはどうでもよくなった。そんななかで起きた悲劇だと思うが、当時の国際状勢や各国事情の説明もないし、ナレーション入りで一見実録風のつくりであるにもかかわらず、ソ連と日本のあいだでいつどのような交渉が行われたのかも紹介されない。ただ台詞のなかで「停戦協定が締結されたのに…」とか感情的に語られるのみである。『東アジアの終戦記念日 - 敗北と勝利のあいだ」[B1232]によれば、ソ連が戦闘を続けたのは日本軍が武装解除に応じなかったからだそうだが、そのようなことももちろん描かれていない。もっとも、内地にいる方面軍や大本営からの命令に翻弄される様子は繰り返し描かれており、内地と樺太の温度差や、方面軍に対する批判的な視線は感じられるが、描きかたがきわめて中途半端。

当時、ソ連大使館の抗議によって公開が中止になったというのもウリのようだが、表現の自由について語るレベルの映画ではない。ソ連大使館はオトナゲないといえばいえるし、文句を言いたくなるのもわかる。この映画はむしろ、史実だのなんだのは忘れて、ソ連側からアクション映画的に観るのが楽しいかも。「ニエーット」と叫んで軍使を射殺する将校とか、Gメン歩きならぬGメン走りで市街地に入り、民間人を射殺しまくるソ連兵とか、なかなかすごい。適当に集められたと思しき白人エキストラがぜんぜんロシア人に見えないのはいただけないが。

木村威夫が再現した樺太は、郵便局の前あたりと町並みが少し出てくるくらいで、圧巻というほどのものではない。丹波哲郎樺太にいる部隊の参謀長で、まあいつもの役にいつもの演技。これといってタンバならではのことをしてくれるわけでもないので、彼のためだけにこの映画を観る必要は特にない。豪華キャストといっていい人たちのわざとらしい演技のなかでは、一服の清涼剤ではある。

なお、チラシでは「日本映画の中で樺太を扱った映画はない」と断言しているが、もちろんある。『北極光』[C1941-11]である。ちゃんと樺太ロケ。『1Q84』で有名になったギリヤーク人も出てきます(ニセモノだけど)。

久しぶりに途中で「早く終わらないかな」と思った映画で、終わったら隣のゾンビ映画を観たようなフリをしてそそくさと出た。『シルビアのいる街で』と『何も変えてはならない』の予告篇が観られたのと、「石井輝男 怒涛の30本勝負」のチラシをゲットできたのが収穫。

映画のあとはJ先生と待ち合わせ、とんきに行ってひれかつを食べて帰る(本日のメインイベント)。