実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『秋津温泉』(吉田喜重)[C1962-04]

ポレポレ東中野の「自伝刊行記念回顧上映 女優 岡田茉莉子」へ行くため朝から出京。せっかくの回顧上映なのでもっとじっくりやってほしいが、こんな日替わりメニューではなかなか行けない。それにプログラムの間が20分しかなく、ごはんも食べられない。しかたがないので、ミスタードーナツで朝10時から昼ごはんを食べる。おなかがすくことを想定して、1個だけテイクアウトもしておく。

一本めは、吉田喜重監督の『秋津温泉』。スクリーンでは22年ぶり。

秋津温泉 [DVD]

秋津温泉 [DVD]

8月にDVDを観ており、感想はこのとき(id:xiaogang:20090817#p2)とほとんど変わらないが、以下、気づいた点など。

  • この映画の主役は新子=岡田茉莉子で、女性の悲劇を描いているのかもしれない。しかし、わたしが感情移入するのはやはり圧倒的に周作=長門裕之である。感情移入というより「これがわたしだ」という感じ。『浮雲[C1955-01]にしても、「これがわたしだ」と感じるのは圧倒的に森雅之のほうだった。『秋津温泉』の岡田茉莉子も『浮雲』の高峰秀子も、自分からは遠い、いわば映画のなかの人物という感じがする。ただ、彼女たちは、当時女性が結婚しないで生きていくことがいかに困難であったのかを表しているのかもしれない。
  • 周作の役はもともと芥川比呂志がやることになっており(病気のため降板)、岡田茉莉子は『女優 岡田茉莉子[B1369]に、少しだけ撮ったシーンがすばらしかったと書いている。しかしわたしには、長門裕之に交替したことがこの映画の成功につながったように思える。芥川比呂志のような毒のない二枚目がやる周作というのは想像できず、ぬるい文芸映画になってしまったような気がしてならない。
  • 岡田茉莉子は、少し演技過剰のように思われる。17年という年月の、肉体的、精神的な変化を強調するためだろうが、若いころの新子はあまりにキャピキャピしすぎていて、いかにも「演技しています」という感じがする。一方、最後の新子は、生きているうちからすでに死んでいるようで、不自然なほどに陰気であり、その前からの変化が激しすぎる。
  • 別れのシーンなどで、岡田茉莉子はマキノみたいな演技をしている。
  • 新子と周作の役割が交替していくことの象徴として、相手の名前を呼ぶということが位置づけられているのではないかと思った。前半では新子が「周作さーん」と呼び、後半では周作が「新子さーん」と呼ぶ。特に、丘の上から新子が大声で「周作さーん」と叫ぶシーンと、戻ってきた周作が「新子さーん」と大声で呼ぶラストシーンが対応しているように思われる。
  • 音楽はやはりどうしようもないほど過剰。『女優 岡田茉莉子』によれば、音楽を入れる場面は作曲家の林光に任されていたが、吉田喜重は「ここで音楽を入れざるを得ないようにしか、私は映像を撮っていない」と豪語していたらしい。その結果は…。せっかく自然の音が豊かな場所なので、音楽は極力入れないで、もっと自然の音を生かしたほうがよかったと思う。
  • 映像的には特別ここがいいというのはなかったが、岡田茉莉子も書いているように、抑制された色彩は印象的。