実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『この愛の果てに(愛到盡)』(鍾紱勝)[C2009-04]

同時上映の『サインはV』にJ先生を置いて、副都心線新宿バルト9に逆戻り。またも東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で、鍾紱勝(サイモン・チュン)監督の『この愛の果てに』を観る。J先生には、予告編をちらっと見て「けっこうはげしいかも」と言ったら拒否された。レズ映画には行くのにゲイ映画には行かないというのはアヤしい。

主人公はたしかにゲイだし、エッチシーンもそれなりに多いが、特にゲイ映画というわけではなく、恋愛映画でもなく、テーマは麻薬と人間の弱さである。主人公は、すがるような目つきがオトコゴコロをくすぐる(たぶん)、ちょいと劉菀(リウ・イエ)を思わせる青年ミン。彼は、自分から積極的に麻薬に手を出すようなタイプではなく、何かから立ち直るために麻薬にすがるわけでもなく、ただなんとなくまわりに流されるまま、売春や麻薬に手を出してしまう。そして痛い目にあっても、そこから何も学ばない。そのことがまわりを傷つけ、母親を失い、恋人を失い、ひそかに思いを寄せていた兄のような存在をも失う結果になる。

中盤、ミンは麻薬中毒の更生施設に入る。それがメインというわけではないが、更生施設のシーンはそれなりに長く、『ハピネス』[C2007-38]や、つい先日観た『何故彼女等はそうなったか』[C1956-33]を思い出させる。「何故彼等はそうなったか」という感じである。『何故彼女等はそうなったか』では、少女たちの更生を阻むものとして社会の無理解や偏見が描かれていたが、この映画ではそれはほとんど描かれない。彼らの更生を阻むのは、彼ら自身の弱さである。

更生施設には、天使のような香川京子先生はいない。キリスト教系の施設なので、ボスはキリスト教徒だか牧師だかのおじさんで、ふたことめには「○○のために祈ろう」と言う。そのへんの胡散臭い感じは『ハピネス』を思い出させる(ヘンな体操はしない)。『ハピネス』と同様、胡散臭く感じられるだけで、ボスは真剣にみんなを更生させようとしているようだが、ミンはなかなかその雰囲気にとけこめない。集団行動とか「○○法」とかが大きらいなわたしは、彼の「みんなでお祈りなんてバカらしくてやってらんない」という態度はすごくよくわかる。共感してはいけないかもしれないが、共感してしまう。

それでもミンは、トレーナー役の入所者コンの誠意もあり、いちおう更生して施設を出る。先に出所していたコンを訪ねると、職も彼女も得て順風満帆の生活をしており、家も職も世話してくれる。しかしコンの安定した生活は、ミンが加わることによって崩れてしまう。施設でもシャバでも、すごくしっかりしているように見えたコンだが、性悪女に裏切られただけであっけなく壊れてしまう。人間というのは本来弱いものだとつくづく思わされる。自分が恵まれた状況にあり、満たされているときは、「弱いやつが悪い」とか「自業自得」だとか「自己責任」だとか勝手なことが言える。しかし、安定した生活や大切な人を失ったとき、何かで心に隙間ができたとき、その弱い部分に悪魔が入り込む。その人が本来、強いか弱いかの違いは思っているほど大きくなく、状況と誘惑との単なるめぐり合わせに過ぎないのではないか、とも思えてくる。

この映画のラストは、一見あまりにも救いがなくて、あまりにもやるせない。それでも、ミンはこれをきっかけに学び、成長するに違いないという希望を感じさせる。

この映画のラーメンは、鍋で煮て作るインスタントラーメン。かなりうまそうだった。

J先生と合流し、ラーメン、ではなく、とんきでひれかつを食べて帰る。