実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『夜はやさし』のオリジナル版とカウリー版を比較する

映画でも小説でも、基本的には時間順序どおりに描かれたシンプルな構成が好きだ。しかし『夜はやさし』に関しては、わたしはオリジナル版のほうがいいと思う。もちろん、異なる翻訳で読んでいるし読んだ順序の影響もあるから、フェアな比較ではない。

オリジナル版のほうがいいと思う理由は、まずはよくいわれているように導入部の吸引力である。フレンチ・リヴィエラの海辺を舞台にした華やかさと、「ダイヴァー夫妻はいったい何者だろう?」と読者に思わせ、ミステリーふうに読者を物語に引き込んでいくところ。しかしそれ以上にわたしは、ニコルの印象の違いを挙げたい。カウリー版では最初から心を病んだ女性として登場するニコルが、オリジナル版ではまわりから愛されている、ひと目見て魅了されるような魅力的な女性として登場する。その印象の違いはとてつもなく大きい。

ほかには、オリジナル版では、ローズマリーを有名にした映画の題名、“Daddy's Girl”や、エイブ・ノースが次第に酒びたりになってまわりから疎まれ、落ちぶれていく様子が、その後の展開の伏線になっていると思うが、カウリー版ではそうはならない。

印象の違いでいえば、カウリー版のほうがディックの転落に必然性が感じられるというのは、たしかにそうだと思う。精神病患者の女性と将来有望な精神科医との恋愛結婚、しかも女性は大金持ちである。しかし医師は金目当てではないので、苦労して自分の稼ぎで暮らし、プライドを守ろうとする…。カウリー版では最初から、このふつうに考えてうまくいくはずのない想定が前面に出ている。だから、運命に翻弄されて破滅するディックというふうに読め、たしかに納得性は高いだろう。

しかしオリジナル版の印象は少し異なる。不安定であっても、ディックとニコルのあいだにかつてたしかに存在したものが、なすすべもなく失われていく。ディックは少しずつ魅力や野心を失くしていき、少しずつ壊れていく。その事実や過程そのものに強く心を打たれる。必然性は必ずしも必要ではない。ディックの置かれた境遇は、たしかに彼らの関係や彼自身を壊す触媒となったかもしれない。しかし原因とはいえない。結局のところ、ディックを崩壊させたのは、もともと彼自身のなかにあった弱さなのではないか。オリジナル版を読むとそのように思える。

いくら売れなかったからといっても、どうしてフィッツジェラルドがこのような改訂を考えたのか不思議だ。どの方面からみても、考えれば考えるほど、オリジナル版の構成がじっくり考え抜かれたものであることが明らかになる。もっとも、フィッツジェラルド自身が改訂してもう少し手を加えていたら、これはこれでオリジナル版に匹敵するものになっていたのかもしれないけれど。