10時ちょうどに有楽町交通会館へ行ってチケットを買い、シネマート六本木へ。李滄東(イ・チャンドン)の新作、『シークレット・サンシャイン(密陽)』(公式/映画生活/goo映画)を観る。李滄東の映画は、『ペパーミント・キャンディー』[C1999-24]、『オアシス』[C2002-11]に続いて3本め。これまでの映画は、いずれも力作であることは認めるが、なんとなくあざとい気がしてそれほど好きではなかった(単に薜景求(ソル・ギョング)が苦手なのかも)。ところが今回は今までとは少し違って、表面的にはさらりとした感触ながら、緊張感のある、心動かされる映画だった。
映画の舞台であり、原題でもある‘密陽(ミリャン)’、すなわち秘密の陽射しがキーワードであり、象徴的な役割を果たしている。陽射しそのものも何度か象徴的に登場する。ちなみに、全度妍(チョン・ドヨン)が宋康昊(ソン・ガンホ)に「ミリャンの意味を知ってる?」と訊ねると、宋康昊は「考えたこともない」と答える。これは要するに、‘密陽’という漢字表記を知っているか否かという問題と深く関わっている。漢字を知らなければ、その地名の意味も省みられなくなってしまうのだ。韓国、北朝鮮の政治家、教育者、知識人のみなさん、こんなことでいいと思いますか? 漢字を復活させましょう、漢字を。
映画の内容は、「全度妍と宋康昊が密陽までドライブするロードムービー」と勝手に思い込んでいたら全然違っていた。全度妍が演じるシネという女性が息子を誘拐されて殺される、「犯罪被害者もの」である。事件のショックや喪失感から立ち直る過程で、宗教による救いはあるのか、神とは何か、加害者を赦すとはどういうことか…といったことも問われている。シネはいったんは宗教の力で加害者を赦そうとするけれど、それは本当の赦しではない。相手に赦すと伝えることで、相手から有り難がってもらい、影響力を保ちたいだけだ。それは結局のところ憎むのと同じことである。テレビに出て「憎い、赦せない」と叫んでいる犯罪被害者の人たちも、そうすることで相手を傷つけ、影響力を保ちたいのだと思う。
加害者を赦すという計画が思いどおりにいかなかったことで、シネは宗教を敵にまわし、神を挑発しはじめる。彼女はたしかに精神のバランスを失っているが、彼女の行動を病気のせいにしてしまうとおもしろくない。入信していたキリスト教の集会に出かけて「嘘、みんな嘘♪」というCDをかけるところなど、「座布団三枚」と叫びたくなる。その後次々に神を挑発する彼女は天晴れであり、わたしはこのシネという女性がすっかり好きになった。
彼女が心の平安を取り戻し、本当に加害者を赦すことができるまでには、まだまだ長い時間がかかるだろう。それでいてラストシーンでは、彼女がいずれ立ち直ることを、わたしたちは確信する。彼女が加害者を赦すためには加害者の娘がキーとなる存在であり、彼女が最後にふたたび登場するのは象徴的である。シネの家には裏庭があり、あまりきれいとはいえないながらなにげにいい感じであり、繰り返し登場して印象的だが、ラストシーンのこの裏庭がとりわけ印象に残る。
欠点や弱さも併せもつ等身大のヒロインを体現している全度妍もいいが、それ以上に宋康昊がいいと思った。単純でお節介で俗っぽい、憎めないけれどちょっと煩わしい男。小さな自動車修理工場だが、いちおう社長なので銀縁眼鏡をかけたりしていて、それがまた俗っぽかったりする。シネが子供を誘拐され、助けを求めようとしているときに、事務所で一人カラオケを熱唱している男。かと思えば、さして聡明とも思われないのに「赦すのなら心の中で赦せばいい」と、本質的な言葉を何気に吐く。そんなジョンチャンという男を、自然かつリアルに演じていた。
ちなみに加害者の経営する塾は超怪しくて、「声に出して読みたいなんとか」とか言っている人を連想させる。犯人であることがわかったときは「やっぱり」という感じだった。キリスト教もかなり怪しげだったが、あれはふつうのキリスト教なのだろうか、それとも新興宗教なのだろうか。強引な勧誘や寄付金は出てこず、信者はみな善意の人みたいだったが、宗教的「善意」というのがまた恐いんだよね。