実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『暗殺された映画人、劉吶鴎の足跡:1932年-1937年』『上海映画工作の一側面 - ある台湾人の足跡から』(三澤真美恵)

チケットぴあに並んでいるあいだに、三澤真美恵氏の論文を二つ読む。『李香蘭の恋人 - キネマと戦争』(id:xiaogang:20071018#p1)に関連して、劉吶鷗に関するものである。ひとつは、『演劇研究センター紀要IV』(早稲田大学21世紀COEプログラム〈演劇の総合的研究と演劇学の確立〉発行、2005)に収録された『暗殺された映画人、劉吶鴎の足跡:1932年-1937年 - 「国民国家」の論理を超える価値創造を求めて』。もうひとつは、『アジア遊学』No. 54 [M65-54](特集:メディアとプロパガンダ)に収録された『<孤島>上海映画工作の一側面 - ある台湾人<対日協力者>の足跡から』。前者は[まぜるなきけん](LINK)のせんきちさんに教えていただいたもの。後者は前者で言及されていて、探したら持っていたもの(たぶんまだ読んでいなかった)。書かれたのはこちらが先。

『暗殺された映画人、劉吶鴎の足跡:1932年-1937年 - 「国民国家」の論理を超える価値創造を求めて』は、「対日協力」へと至る1932年-1937年の劉吶鷗の足跡を、「三度の越境」という視角から検討したもの。検討の結果、次のことが明らかにされている(「おわりに」(p. 119)からほぼ引用)。

  • 彼の越境の原点には、「日本人」としても、「中国人」としても、当然には「国民」として統合されない植民地出身者としての「はっきりと国旗を背負った人達」の間に立つことの苦しみがあった。
  • その際、他の多くの台湾人青年とは異なって、越境の当初から中国ナショナリズムへの憧憬を抱いていなかった。
  • 映画理論においては芸術の政治化を批判したが、映画製作の実践においては政治権力に接近していくという矛盾がみられる。
  • 政治権力へ接近した要因として、国民党の弾圧による出版事業の挫折、左翼理論界からの批判、魯迅との確執、映画事業特有の巨大な資金とシステムが挙げられる。
  • 政治宣伝機関に身を置きながらも「政治に汚染されない」映画に期待をかけていた。

これらの検討に基づいて、著者は次のように結論づけている。

つまり、劉吶鴎は、植民地台湾における被支配者として「精神的外傷」をこうむったと同時に、植民地・植民地本国における「近代性」を存分に享受しうる階層にあったため、それを資本として封建的大家族制や日本のナショナリズムから脱出し、上海における文化人としての地位を確立したという側面ももつ。そして、「植民地支配がもたらした精神的外傷」によってナショナリズムへの情熱をもてなかったために、ナショナルな枠組みを越えた価値創造を映画に求め、「未来の純粋芸術的な、自由な映画」の製作という目的のために、政治権力への接近を選択した。そのひとつの帰結が国民党の「御用文人」たる党営映画スタジオの製作責任者という立場であり、もうひとつの帰結が日本軍に対する「対日協力者」という立場であった。これが、劉吶鴎がなぜ「漢奸」と呼ばれながら「対日協力者」となったのかという問いに対する、現時点での筆者の仮説的結論である。(p. 119)

劉吶鷗の複雑な行動を、その複雑な背景をもとにさまざまな視点から検討した、非常に興味深い論文である。

『<孤島>上海映画工作の一側面 - ある台湾人<対日協力者>の足跡から』は、日中戦争勃発後、中華電影成立以前の、「孤島」上海における日本の映画工作をまとめたもの。これらの映画工作に、東宝の松崎啓次と劉吶鷗がどのように関わったかについて述べられている。

李香蘭の恋人』で劉吶鷗に関して書かれていたことは、これらの論文にすべて出揃っているといっていい。さらに、ずっと緻密に、多面的な視点から検討されている。一次文献として何を読んだらいいかというところから考察のポイントに至るまで、かなり参考になるものであったに違いないのだが(しかしもちろんわたしには本当にそうなのかは証明できない)、『李香蘭の恋人』の参考文献には載っていない。『李香蘭の恋人』の位置づけを明らかにする意味でも、先行研究に対するリスペクトを表すためにも、参考文献に載せるべき論文であり、載せていなければわざと載せていないと思われてもしかたがないと思う。