実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『東アジアの終戦記念日 - 敗北と勝利のあいだ』(佐藤卓己、孫安石・編)[B1232]

『東アジアの終戦記念日 - 敗北と勝利のあいだ』読了。

東アジアの終戦記念日―敗北と勝利のあいだ (ちくま新書)

東アジアの終戦記念日―敗北と勝利のあいだ (ちくま新書)

日本、韓国、北朝鮮、台湾、中国を対象に、終戦/解放/戦勝の記念日がいつで、それはどのような理由で決まり、どのような過程を経て定着していったのかを、主に当時の新聞記事などに基づいて論じた本。日本については、中央だけでなく、8月15日に戦争が終わらなかった北海道でも8月15日が終戦記念日となっていった過程や、戦闘は6月に終わったけれども日本の独立後も占領が続いた沖縄で、沖縄独自の意味をもつ様々な日付が重要視されたり忘れられたりしながら8月15日が終戦記念日となる過程なども記述されている。

いろいろな意味で、非常に興味深い本だった。8月15日が終戦の日でもなんでもないということは以前から知っていて、ずっと気になっていたので、そのあたりの詳細がよくわかってよかったというのがまずひとつ。「玉音放送」だけではなく、お盆とも関連があったというのは初めて知った。

二つめには、私が8月15日に対して抱いている違和感から、この本に対して共感するところがあった。私が感じていたのは、たとえば戦没者と言ったときに、日本の、あるいは日本人の戦没者だけが念頭に置かれていて、旧植民地の人々や、日本との戦争による戦没者は対象外であるらしいことへの違和感である。さらにいえば、「戦没者」というとある意味「戦争の犠牲者」であるように感じられ、その立場に立つことで安心して「戦没者を追悼し平和を祈念」することができているように思われることへの疑問である。戦没者の多くは被害者であると同時に加害者でもあったことを忘れてはならないし、そのためにも、日本人戦没者だけではなく、旧植民地や日本が侵略した国の戦没者まで念頭に置き、一緒に追悼する必要がある。日本独自の記念日であることがその妨げになるのだとしたら、加害者も被害者も一緒になって戦争を考えることのできるような、共通の終戦記念日を設けるべきだ。編者のひとり、佐藤卓己氏は、「まえがき - 「八・一五終戦」神話に向き合うこと」の中で、「二国間の過去を「一国中心の歴史(ナショナル・ヒストリー)」を超えた文脈で捉えなおすためにも、まず私たちが国際的に通用する「終戦記念日」を確定することが必要なのではあるまいか。」(p. 12)と述べていて、私もそれに賛成である。

ただ佐藤氏は、次のようにも述べている。

 以上の経緯を踏まえて、私は現行の終戦記念日の正式名称「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を今こそ政教分離し、お盆の八月一五日「戦没者を追悼する日」と別に、九月二日「平和を祈念する日」を新設することを提唱している。……(p. 38)

国際的に通用する終戦記念日を9月2日にするというのは私も賛成である。しかし「戦没者を追悼する日」と「平和を祈念する日」を分けるというのがよくわからない。そもそも私は「死者を追悼する」というのがどういうことなのかよくわからないのだが、個別の死者を追悼するのは、特定の日や特定の場所でするようなものではないと思うし、抽象的な死者の追悼は、宗教的あるいは感情的なものとは異なるように思われる。「戦没者を追悼する」と言った場合、それは二度と戦争がないように「平和を祈念する」ことにほかならないのではないか。

三つめは、当然のことではあるが、各国の終戦/解放/戦勝の記念日が、いかに戦後のその国の政治と深く結びついているかが浮き彫りにされている点が興味深かった。記念日が決まっていく過程をたどることは、とりもなおさず各国の戦後史をたどることであるが、植民地から解放された、あるいは戦争に勝ったはずの国が、降伏した日本に比べていかに苦難の道を歩くことになったか、また沖縄が日本本土といかに異なる苦難の道を歩いてきたのかということを、あらためて突きつけられる。その原因の多くは日本にあるということも、あらためて記憶し、考えていかなければならない。

ところで、その戦後の歩みは、台湾、中国、韓国についてはある程度知っている内容だが、北朝鮮に関してはあまり知らないので新鮮だった。北朝鮮のふつうの人たちは、民主主義とは何かも社会主義とは何かも知らないまま、植民地から突然社会主義政権の中に放り込まれ、それが金日成の個人崇拝というおかしな方向に進んでいっても、おかしいと気づかないままにそれに加わっていったのではないかと感じた。私は以前から、金日成崇拝は「御真影モデル」ではないかと思っていたが、少なくとも一般の人々が金日成崇拝を受け入れてしまった過程は、やはりそれまで強制されていた御真影天皇崇拝が援用されたのではないかという気がする。