実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『北京飯店旧館にて』(中薗英助)[B1195]

『北京飯店旧館にて』読了。文庫になったので、買いなおして再読した。

北京飯店旧館にて (講談社文芸文庫)

北京飯店旧館にて (講談社文芸文庫)

戦時中、邦字紙の記者として北京に住んでいた主人公(ほぼイコール著者なのだが)が、約40年後の1987年に初めて北京を再訪したときのことを綴った、旅行エッセイ風の小説。単に懐かしい場所をまわるだけの感傷過多な物語になっていないのは、北京時代に中国人(陸柏年や袁犀など)との交流がかなりあって、彼らの死の真相を調べたり遺族に会ったりすることが、旅の目的のひとつになっているからだ。そしてまた、自分が所詮は占領国側の人間であり、親しくしていても中国人の友人とのあいだには壁があったこと、日本の憲兵隊に殺された友人を助けることができなかったこと、様々な理由があって淪陥区に残った中国人が、そのために文化大革命などで糾弾されたことなどに対する無力感ややりきれなさが、全篇を覆っているからである。

堀田善衛の『上海にて』[B133](asin:4480082360)と並び称されることもあるようだが、『上海にて』にははるかに及ばない。それは文体的な好みもあるし、いろいろな問題提起をしながらそれがあまり掘り下げられていないように感じることにもよるが、なによりも、この小説を読んでいて感じる居心地の悪さが、一定以上のめり込むことから遠ざけている。主人公がそう感じているかどうかとは関係なく、私が主人公になったつもりで読むと、旅で感じる居心地の悪さがものすごくリアルに伝わってきてしまうのだ。

まずひとつには、この旅がテレビ局の仕事を兼ねたもので、同行のディレクターや通訳や運転手がいることが挙げられる。主人公の北京時代の想い出などは、モノローグ的に表出されるだけでなく、その多くが同行者との会話として語られる。同行者たちは、主人公の思いを理解しようとはしているけれども、主人公の強い思い入れと、あくまで他人事として聞く人たちとのあいだには、どうしようもない温度差が存在する。主人公からみて、所詮はわかってもらえないという気持ちも、同行者からみて、時にちょっとひいてしまうようなところも、どちらもよくわかってなんとも居心地が悪い。

それからもうひとつ、主人公が家や店を探して現地の人にたずねるとき、そこに流れるぎこちない空気みたいなものから感じる居心地の悪さがある。主人公にとってどんなに大切な想い出で、どんなに思い入れがあっても、解放前の昔のことなどに誰も関心をもたない。解放後に北京に来た人だったり、昔のことを知らない世代だったり、また中国が、日本の侵略や内戦といったあまり振り返りたくない歴史を経てきたということもある。しかしそれだけではなく、そもそもそういうものなのだと思う。私は想い出の場所を訪問したりはしないけれど、映画や小説に出てきたところや、誰かが昔住んでいたところや、古い近代建築などをいつも探し回っているが、現地の人がそういうものに関心がなさそうなのを肌で感じることも多い。訪れる側と訪れられる側の思いはいつもすれ違っていて、旅にはいつも多少の後ろめたさのようなものがつきまとうけれど、それが生々しく感じられすぎてどうも読後感がよくない。

それからこの小説で気になるのは、同じような説明が何度も何度も出てくることだ(‘没事兒’の説明とか田小姐の経歴とか)。もともと断片的に発表されたものなので、各短篇のみで話が通るようにするのはやむを得ないとも思ったが、「後記」を読んだら、一本にまとめるにあたって書き改めたと書いてあった。だとしたらどうしてそのあたりをなんとかしなかったのだろうか(年をとるとついつい説明過多になってしまうものなのだろうか)。陸柏年などとの交流やそれにまつわる主人公の思いにしても、より深められないまま似たようなフレーズが繰り返されるので、だんだん陳腐化していくように感じられる。

私がこの本を最初に読んだのは、2001年春に初めて北京へ行く直前だったと思う(はっきり憶えていないのだが)。ほかに見に行くところがたくさんあったのと、読んだのが直前で準備できなかったのとで、特に出てくるところを探してまわったりはしなかった。それでも、読んでいると、私もここに行ったとか、私が行ったときにもあったとか、そういうところがたくさんある。主人公は、1987年の北京を見ながら1940年代前半頃の北京を探すのだが、私はそれを2001年の北京から振り返って眺めることになる。そしてまた、変貌が激しいと伝えられる北京の今を想像し、ここはもうないかもしれない、ここも変わってしまったかもしれないなどと推測する。このように重層的に北京を眺めることが、この本を読むことの大きな魅力だが、それは楽しくもあり、また寂しくもある。