『千々にくだけて』読了。
- 作者: リービ英雄
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/09/12
- メディア: 文庫
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表題作は、テロが起きたとき、たまたまバンクーバー経由でニューヨークに向かおうとしていた主人公(ほぼ作者本人の体験に基づくものらしい)が、そのままバンクーバーに足止めされてしまった数日を描いたもの。空気が変わり、世界が変質していくさまが、日常と非日常の、そして言語的体験の重層的な積み重ねによって描かれており、非常におもしろく読んだ。
バンクーバー経由を選んだのは単に飛行時間の理由からであり、バンクーバーにもカナダにもなんの興味もない。しかもテロのあったニューヨークとワシントンD.C.には家族が住んでおり、なかなか連絡がとれない。それはもちろん予想だにしなかった、ものすごく非日常な状況である。予約していたニューヨークのホテルにキャンセルの電話をすれば、「やむをえない、キャンセル料はいらない」と言われる。ところが、母親にはそのような論理は通用しない。国境が閉鎖されようが飛行機が飛ばなかろうが、予定どおり来ることを要求される。明確な理由があるのに論理は通用せず、個人的な理由を詮索されてぐちぐち文句を言われるという、わたしにもとてもおぼえのある、母親との日常的な世界。一方、新聞やテレビが‘IT'S WAR’と煽るのに対して、終戦の体験を引き合いに出して、足止めをくって空港で寝ることなどたいしたことではないと語るおばあさん。
世界が変わってしまったことへの違和感は、機長のアナウンスやブッシュの演説や母親の電話の話への違和感として意識されているのだが、それはふだん聞かない語彙に対する違和感に、英語そのものに対する違和感が重ねられている。それは単に、日本語の世界から英語の世界へ移る途上にあるがゆえの体験というだけではなくて、主人公が翻訳をやっているという特殊な事情が大きな要因を占めているように思われる。主人公は、英語を理解してその語彙や内容に違和感を感じつつ、それをいちいち(無意識に)日本語に直してふたたびその語彙や内容に違和感を感じている。
この本に一緒に収められている『国民のうた』は、作者の言語に対する鋭い感覚がさらに際立った一篇である。こちらもアメリカの実家に一時帰国する話だが、知的障害のある弟との再会を契機に、台湾での幼少時代の回想へと入っていく。そこで主人公のすぐ近くにいて、しかしほとんど交わりをもたない台湾人たちは、北京語をしゃべる人たちとか、台湾語を話す人たちとして認識されている。もちろん幼い主人公は、それが北京語だとか台湾語だとかは知らず、「あのことば」などと書かれているのだが、音に対する認識の鋭さと記憶の鮮やかさは、なるほどふつうの人ではないと思わせられる。
ところで台湾といえばバナナだが、今日はスーパーを4軒と八百屋を1軒覗き、帰宅に2時間以上かかり、結局モンキーバナナしか入手できなかった。