実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『CUT』(Amir Naderi)[C2011-31]

シネマート新宿で、アミール・ナデリ監督の『CUT』(公式)を観る。

CUT [DVD]

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アミール・ナデリは、『マラソン』、『サウンド・バリア』、『べガス』が東京フィルメックスで上映されているようだが、残念ながら観ていない。それ以前に『マンハッタン・バイ・ナンバーズ』というのが公開されているらしいが、ぜんぜん知らなかった。わたしが観ているのは、イラン時代の『駆ける少年』[C1986-59]のみである。『駆ける少年』はかなり偏執的な映画だったと思うが、『CUT』も非常に偏執的な映画であり、時が経ち、場所を変えてもやはり同じ監督という感じがする。

ひと言で言えば、シネフィルの監督が、自分の映画のなかに臆面もなく好きな映画や監督の名前をちりばめるために作った映画だと思う。そういう意味ではたいへん微笑ましいが、「ちょっとなー」とも思う。映画好きだからこそわかる部分もあるが、映画好きだからこそひいてしまうところもある。好きな映画がちょっとだけ引用されたり言及されたりすると、うれしくなってその映画の評価も上がるが、これだけ大々的に出てくると逆に醒めてしまう。

この映画について、「映画愛」という言葉がよく引き合いに出されるけれど、わたしはこの言葉がきらいだ。様々な具体的な感情を、こういう抽象的な言葉でまとめてしまうのがそもそもイヤだけど、それだけではなく、愛があればいいみたいな考え方がきらい。愛があってもひどい映画はひどい映画で、ひどい文章はひどい文章である。以前、ある香港映画本のことを、多くの人が「映画愛にあふれている」と言って褒めたたえていたが、わたしに言わせればやたらにテンションの高い、疲れる本だった。そう、映画愛にあふれているとテンションが高い。この映画の主人公の秀二(西島秀俊)もそうだ。わたしはテンションの高い人が苦手である。秀二が語る映画の危機については、ある程度は納得できるし、彼のように自ら動き、働きかけることが必要なのかもしれないとも思う。しかし、面倒だから書かないけれどいろいろ反論もあるし、正直なところ秀二はかなり苦手なタイプだ。

最後に挙げられる100本の映画は、原題や英題などのアルファベット表記がかなり短い時間表示されるだけなので、全部は把握できなかった。日本映画なので、そこだけのために字幕を入れるのは面倒だったのかもしれないが、邦題や監督名の漢字表記を字幕で入れてほしかったと思う。100本に何を挙げるかは、好みや鑑識眼のほかにこれまでの映画環境にも左右されるので、あれが入ってないとか言ってみてもしかたがないが、全体的にいかにもシネフィルっぽく、あまり偏っていない。侯孝賢(ホウ・シャオシェン/ホウ・シアオシエン*)の『童年往事 時の流れ』[C1985-34]と、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン/ツァイ・ミンリアン*)の『Hole』[C1998-28]がたぶん入っていたのがよかった。なぜ『親』[C1928-S]なのかというのが素朴な疑問としてあるが、清水宏が入っていたのもよい(『親』は最初の上映会のシーンでもプログラムに入っていたので、こちらのほうが画面に映ればもっとよかったのだが)。

しかし、秀二がお墓参りをする監督が、黒澤明溝口健二小津安二郎という組み合わせなのがイヤだ。上述した「偏りのなさ」の一例かもしれないが、この3人をまとめて賞賛する人というのは、個人的に信用できない。日本映画を代表する監督というのなら、成瀬巳喜男が入っていないのが激しく不満である。それから、ベスト1が『市民ケーン』[C1941-04]というのも醒めた。

高利貸しの事務所の、だだっ広い空間の隅にバーがある部屋や、屋上が映画館になる秀二の部屋など、空間・美術的な面はおもしろかった。殴られてどんどんゆがんでいく秀二の顔は、『いますぐ抱きしめたい』[C1988-46]の張學友(ジャッキー・チョン)を彷彿させ、隣に並べてみたくなった。今までいいと思ったことがなかった常盤貴子がすごくよかった。ショートカットや無造作なファッションが、今までにない彼女の魅力を引き出していたと思う。