TOHOシネマズ六本木ヒルズで、盧晟(ルー・シェン/ルー・ション*)監督の『ここ、よそ』(東京国際映画祭)を観る。第24回東京国際映画祭のアジアの風部門アジア中東パノラマの一本。
舞台は上海、大興安嶺、パリ。登場人物がちょっとずつつながっている三つの物語が並行して語られる。描かれるのは、いずれも家族のような小さな世界だ。小さな世界で起こる決して小さくはない出来事(トラブル)と、それらを通じて登場人物たちがつながりを深めたり、想いを確かめたり伝えたりするさまが淡々と綴られる。そのための小道具として、写真や電話、小包などがうまく使われている。
上海篇は、小さな牛肉麺店を営む老陸(姚安濂(ヤオ・アンリエン*))と、そこの従業員・國光(呂聿來(リュイ・ユィライ/リュー・ユーライ*))と、客の小夏(黃璐(ホアン・ルー*))の話。國光と小夏はつき合っているようないないような関係だったが、ある日突然小夏が死んでしまう。
國光を演じる呂聿來は、『孔雀 我が家の風景』[C2005-47]で原田芳雄になって帰ってくる弟。小夏を演じる黃璐は、『中国娘』[C2009-45]の中国娘。ふたりとも地方から働きに来ていて、まだ東方明珠塔にも上ったことがない。小夏が死んだあと、國光がそのことを思い出してひとりで上るのが切なく、『ブエノスアイレス』[C1997-04]の梁朝偉(トニー・レオン)を連想させる。國光は東方明珠塔で自分の写真をケータイで撮って、撮った写真を見ると前に小夏といっしょに撮った写真が出てくる。
小夏の死因は明らかにされず、Q&Aで質問した人は自殺だと言っていたが、自殺のはずはない。彼女は保険の外交員だが、自分は余裕がないから保険には入っていなかった。自分の扱っている保険の説明で、かけている途中で事故で死ぬのがいちばん得だという話をするシーンがあるので、彼女の死因は交通事故だと思う。保険を扱っている人が保険をかけないで死んでしまうという一種の皮肉だろう。
大興安嶺篇は、山の中でトナカイを飼育している男性一家の話で、彼は上海篇の國光の兄である。トナカイが密猟に遭ったりして仕事は前途多難であり、一人息子にはそんな苦労はさせまいと、学校のために妻子を村に残して単身赴任している。学校の休みに妻と息子が父親を訪ねてきて、いっとき家族そろって過ごすが、すぐにまた彼らは村に帰っていく。息子は成績もスポーツも優秀で、将来トナカイを飼う気はないようだ。
トナカイの狩猟を禁じられた人々を描いたドキュメンタリー、『オルグヤ、オルグヤ…』[C2007-51]に出てくるのは鄂温克(エヴェンキ)族という少数民族だったが、この一家も少数民族らしく、息子が民族大学の話などをしていた。
パリ篇は、中国人留学生・陸浩と、彼が住む部屋の家賃の集金人である老劉の話。陸浩は上海篇の老陸の一人息子である。彼は強盗に遭って財布もパスポートも失くし、アルバイトを始めて老劉の家に配達に行ったり、老劉にパスポートを見つけてもらったりして彼と親しくなり、いっしょに旅行に出かける。老劉は、戦争でフランスに行ってそのまま住みついてしまったらしく、戦死した戦友の墓を守りながらひとりで暮らしている老人。
監督は自身がパリに留学して映画の勉強をしているので、パリ篇は自伝的な要素があるのではないかと思う。上海篇の老陸が全然裕福そうではないのに、陸浩は強盗に遭うまでアルバイトもしていないし、持ち物がいいものばかりだと老劉に言われる。そんなところに、父親の愛情というか、お父さんがんばったな、というのが感じられて、なにげに心を打たれる。ところで、パスポートを盗まれたら、パリの中国大使館で再発行してもらえないのだろうか。
監督は『無言歌』[C2010-33]のカメラマンだということで、映像が非常に美しい。描かれているのは秋から冬にかけての季節で、季節の移り変わりや、異なる場所の異なる空気が見事にとらえられている。特に大興安嶺篇から始まる冒頭は、ロングショットの秋の風景が美しく、いきなり目が釘付けになった。上海やパリも、一般的なイメージとは違う、庶民、地方出身者、外国人などの生活の匂いが感じられ、夜の暗さが印象に残る。
邦題は『ここ、よそ』だけど、原題“這裏,那裏”の韻を踏んでいるところを踏襲して、『そこ、ここ』のほうがいいと思う。
上映後、盧晟監督をゲストにQ&Aが行われた。子供が生まれたばかりなので、当面は監督よりも撮影をして生活費を稼ぐとのことだが、次回作が早く観たい。