実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『あの頃、君を追いかけた(那些年,我們一起追的女孩)』(九把刀)[C2011-08]

TOHOシネマズシャンテで、九把刀(ギデンズ)監督の『あの頃、君を追いかけた』(東京国際映画祭/公式(台湾))を観る。第24回東京国際映画祭のアジアの風・アジア中東パノラマの一本。

実らなかった初恋の想い出を男の子の視点で描いたもの。少し前の時代の台湾を舞台にした青春もの群像劇(『九月に降る風』[C2008-06]、『モンガに散る』[C2010-07])のように始まって、次第に男女の十年愛映画(『秋津温泉』[C1962-04]、『天安門、恋人たち』[C2006-46])のようになっていく(これらの映画よりずっとずっと軽いが)。高中から大学までを描いていて、最後のほうで地震があって…というところは『花蓮の夏』[C2006-17]を思わせる。

基本的なプロットは、高中の同級生が、お互いに好きなのにはっきり言わないまま卒業し、別々の大学に進み、付き合いはじめるきっかけがありながら逸しているうちに喧嘩別れして疎遠になる。九ニ一地震が起きて、それまでのこだわりを捨てて連絡をとり、一瞬心が通じ合うもときすでに遅すぎた、という感じ。このストーリー自体は、ありがちだけどけっこう好き。だからその部分ではいいと思うシーンもあった。

しかし全体としてはちょっと好みと違う。好みに合わない点、残念な点は次のとおり。

  • 主人公の柯騰(柯震東(コー・チェントン/コー・ジェンドン*))とその友人の男の子たちは徹底的にバカで幼稚で、それが肯定的に描かれている。それはいいのだけれど、そのせいか友人たちはかなり戯画化されており、魅力が感じられない。
  • 特殊効果や笑えるシーンをふんだんに盛り込んだ、サービス過剰なつくりが苦手(「イマドキな映画」とツイートしたのはこのこと)。ストーリーのなかで自然に笑えるのではなく、必然性はないのに笑うためだけにあるような、一発瞬間芸みたいなシーンが多い。たぶん若者にはこういうのがウケるのだろう。
  • 1994年から1999年くらいの台湾が舞台だが、時代の空気みたいなものが感じられない。当時流行っていた日本のサブカルチャーは散りばめられていて、わたしはそこがわからないせいもあるけれど(飯島愛しかわかりませんでした)。あの時代にはあり得ないと思われる制服のスカートの短さも、時代感のなさを助長している。
  • 映像にあまり魅力がなく、学校独特の空気も感じられない。高中時代の舞台は彰化で、大学時代のシーンでは菁桐とおそらく平溪も出てきたが、「台湾へ行きたい気分」を刺激されない映画だった。
  • 沈佳宜(陳妍希(ミシェル・チェン/チェン・イエンシー*))がいけすかない。彼女は努力型の優等生。わたしの最も苦手とするタイプだ。「自分は努力しないで、他人のする努力を見下すような人を軽蔑する」という彼女の台詞があったが、わたしはまさにあなたが軽蔑する人間です。すみません。お手製のテストなんか渡されたら、わたしなら百年の恋もさめてビリビリに引き裂くな。

商業映画としてふつうに日本で公開するのは問題ない。「台湾ですごく流行った映画」というふれこみで公開しても、『海角七号 君想う、国境の南[C2008-36]みたいに、「は? なんでこれが?」みたいな違和感もない。しかしながら、映画祭でやるような映画ではないと思うのだ。

ひとつおもしろかったのは、阿和(郝劭文(ハオ・シャオウェン*))が、単なるデブキャラではなく意外な展開があったこと。『女が階段を上る時[C1960-43]で、ずっと身持ちが堅かったデコちゃんが陥落するのがよりによって加東大介だったのを連想した。デブキャラには意外とそういう役回りもあるのかもしれない。

舞台となった高中は私立精誠高級中學。柯騰が進学するのは、明示されていたかどうか忘れたけれどおそらく國立交通大學。沈佳宜が進学するのは、國立台北教育大學と言っていたけれど、当時は國立台北師範學院だったはず。

上映前に、九把刀監督と主演の柯震東、陳妍希の舞台挨拶があった。九把刀監督、ウケを狙うのもいいが、ちゃんと質問の答えが聞きたかった。