実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『処女が見た』(三隅研次)[C1966-52]

ラピュタ阿佐ヶ谷のモーニングショー「昭和の銀幕に輝くヒロイン[第61弾]安田道代」(公式)で、三隅研次監督の『処女が見た』を観る。

若尾文子が西入庵の庵主・智英尼、安田道代=大楠道代が西入庵に預けられた不良少女・和恵、城健三朗=若山富三郎が若尾ちゃんを犯す本寺のナマグサ坊主・行俊。つまり若尾文子版『美しい庵主さん[C1958-25]で、若尾ちゃんはいづみさまの成れの果て。若尾ちゃんはあのくらいで自殺するようなタマではないが、彼女と安田道代が対になっていて、安田道代が若尾ちゃんに代わってお仕置きする話なのだからしかたがない。

前半は、尼僧としてはあり得ないアイラインとマスカラで完全武装した若尾ちゃんがめちゃくちゃきれい。それにくらべて安田道代は、反抗的な目つきなどはちょっといいけれど、ほとんどノーメイクで眉毛ボサボサ、お肌の木目も荒くてどアップは苦しい。彼女は不良少女と呼ばれてはいるが、なんといっても処女だし、エレキバンドを組んでいる男の子たちと遊んでいるくらいでたいして不良でもない。なので、最初はすごく反抗的だけれど、すぐに若尾ちゃんに陥落してしまう。そこで濃厚な展開を期待するものの、残念ながらハズレ。

そこに城健三朗登場。見るからにいやらしくて感じが悪い。東映でのイメージだと、「智英はーん」といって鼻の下を伸ばして追いかけるけれど鼻もひっかけられない、という感じだが、ぜんぜん違っている。そして若尾ちゃんはエロさ全開。尼僧フェチが望む尼僧モノの王道的展開。

そして若尾ちゃんが死ぬと、それまでいまひとつ冴えなかった安田道代が突然生き生きと輝きはじめる。その変身ぶりが鮮やか。メイクをして登場したりする(でも眉はボサボサのまま)せいもあるけれど、それだけではない。立ち姿の貫禄からしてそれまでとは違う。後半はしっかり安田道代の映画になっていた。