実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『ベニスに死す(Death in Venice)』(Luchino Visconti)[C1971-02]


銀座テアトルシネマで、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(公式)をニュープリントで観る。25年ぶり二度め。いうまでもないが、トーマス・マンの『ベニスに死す』の映画化。原作は読んだかどうか忘れたが、記録によれば読んでいる。

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作曲家のアシェンバッハ(ダーク・ボガード)が自らの道徳観念に反してタジオ(ビョルン・アンドレセン)に惹かれていくのと、ヴェネツィアコレラが蔓延していくのとが並行して描かれ、やがてそれが一体となるかのようにアシェンバッハの死へと繋がっていく。緩やかに流れるマーラーのアダージェットのメロディに乗せて、濃さを増していく退廃的な空気と死の匂い。

なかなかよくできた、完成度の高い映画である。しかしいまひとつこころ惹かれないのは、ダーク・ボガードビョルン・アンドレセンの二人に魅力を感じないからだろう。ヴィスコンティは、アラン・ドロンヘルムート・バーガーと、男の趣味がめちゃめちゃいいが、ビョルン・アンドレセンだけはいただけない。わたしの好みには1ミリも引っかからないが、ヴィスコンティも趣味ではなくて原作のイメージで選んでいるだけなのだろうか。ダーク・ボガードは、ほとんど彼とわからないくらい変装しているが、そこまでして彼を使わなくてももっと似合う人がいると思う。

ラストでアシェンバッハの即席カラーリングやお化粧が溶けていくところがいささかグロテスクすぎるのも、全体の優雅な雰囲気を壊している。床屋から出てきた時点ですでに白粉などが目立って滑稽すぎるが、最初はちゃんと若返ったように見せて、それが崩れていくほうが悲哀が滲み出ていいのに。でも、「恋をするには外見に構わなければ」という床屋さんのアドバイスは正しい。

アシェンバッハが一方的にタジオの美しさに惹かれる話と記憶していたが、実はタジオが再三誘うような妖しい微笑を見せたり、お友だちとじゃれあったり、限りなくゲイ疑惑なのににんまりした。もしかしたら、これらはすべてアシェンバッハの幻覚なのかもしれないけれど。観客は圧倒的に女性が多く、「韓流か?」という感じだったけれど、ゲイ映画としての人気はどうなのだろう。

舞台は1911年のヴェネツィア・リド島、オテル・デ・バン。ヨーロッパ各地からヴァカンス客が集まっており、様々な言語の会話が聞こえている。しかし、アシェンバッハがわからない言語や聞き取ろうとしていない外国語には字幕もついておらず、まるで音楽のようにさわさわと聞こえているのがおもしろい。ただ、名前がアシェンバッハで、ミュンヘン在住で、マーラーがモデルなのに、話しているのが英語というのが解せない。いや、イギリス人のダーク・ボガードだからというのは重々承知で、実はドイツ語という想定なのだろうが、ここまで音としての言語にこだわるのならば、ドイツ語を話す俳優を使えばいいのにと思う。

コレラが流行しているのに観光客には一切知らされないというシチュエーションは、観たのが1年前なら「今ではあり得ないね」で終わっていただろう。しかし今は、もしも福島に国際的なリゾートがあったらと連想してしまう。リゾートは賑わっているけれど、街に出ると地元の人がほとんどいない。しかもあちこちで除染作業が行われている。「なぜ除染しているんですか?」と聞いても、「予防的な措置です」と言うばかり。いかにもありそうだ。そういう意味では今日的で怖い映画。