新宿ピカデリーで、張藝謀(チャン・イーモウ/ジャン・イーモウ*)監督の『サンザシの樹の下で』(公式)を観る。夏休み&映画の日の新宿ピカデリーは、たいへんなことになっている。
張藝謀、またまた大がかりなアイドル映画というかプロモーションビデオを作ったな、という感じの映画。ヒロイン・静秋を演じるのは周冬雨(チョウ・ドンユィ/ジョウ・ドンユー*)。すごい美人というのではない。子供っぽく、パッと見は地味である。冒頭農場実習に行って、泊まる家を割り振るときにひとりだけ余ってしまう、それがごく自然に映るくらいに目立たない。でも笑うとかわいい。どうかするとめちゃくちゃかわいく見える。その、めちゃくちゃかわいい顔だけを写すのではなく、地味な顔、「たいしてかわいくないんじゃない?」という顔を適度に織りまぜて撮る。そうしてここぞというときにめちゃくちゃかわいい顔を効かせる。そこがミソだ、たぶん。
そして彼女に、体操着を着せたり水着を着せたり軍服を着せたりするのだが、肝心の水着姿は見せない。ボーイフレンドにも見せないし、観客にも見せない。監督だけが独り占め(監督は見たよね?)。ずるい。ずるすぎる。ちなみに、赤い水着がいちばん透けると、昔水泳をやっている友人が言っていた。競泳用水着の話ではあるが。
さらに、このあどけない周冬雨に、高校を出て教師として働いているにもかかわらず、どうやったら妊娠するかよく知らないという役を臆面もなく演じさせる。当時は性教育がきちんと行われていなかったと思われるが、親友の紅(姜瑞佳)はふつうに知っている。ニヤけた顔で紅ちゃんに「少し教えてやれよ。いろんなこと」と言う佐野周二が見えるようである。
ストーリーは、文化大革命を背景にした悲恋もの兼難病ものだが、ほとんどは初恋のときめきを描くことに費やされている。主人公のふたりはさわやかで、映像も美しく、全く嫌味なく観られるのだが、どうもドキドキ感や切なさが足りない。それは主に、ボーイフレンドの孫を演じる竇驍(ショーン・ドウ/ドウ・シアオ*)のせいである。この人、わたしには原田泰造にしか見えず、好感度は高いのだけれども、ときめくようなかっこよさはない。しかもお行儀がよすぎる。「いつまでも待つ」と言ったら「ほんとうにいつまでも待つんだろうな」と思わされる好青年ぶりはある意味貴重だけれども、なんというか、性欲がなさすぎる。
しかし、足に包帯を巻くところは、纏足の靴を脱がせるところを連想させ、ちょっとエロかった。張藝謀は、過去にそういうのを撮った知見を生かしているのだろう。あらためて考えてみると、監督のエロい意図は画面のいたるところからにじみ出ているのに、物語の中のふたりはあくまでも清純でさわやか。とてもヘンな映画である。
文革は、背景としてあるけれど、主な登場人物が文革でひどい目に遭わされるような話ではなく、一見、文革中とは思えないのんびりした雰囲気が全体を覆っている。主人公のふたりを引き裂くのは、「何か失敗したら命取り」という、強烈な自主規制ムードである。小さな失敗が命取りになった例が身近にたくさんあったと思われるので、それを単なる自主規制と言ってしまうのはちょっと軽すぎるのかもしれないが、こういったムードはすごく日本的でもあるし、日本をはじめ今の世界を覆っている空気でもある。そこに、過去の話ではない、今日的なテーマを感じる。『シュウシュウの季節』[C1998-32]みたいに、文革のひどさをこれでもかと描かれるとただもううんざりするが、そうではないのが逆におそろしい気がする。
また、産婦人科と思われる病院待合室のおばさんたちの描写が印象的だった。どう見ても未婚の若い娘をめざとく見つけ、いろいろ詮索し、噂するおばさんたち。母娘の修羅場を好奇心もあらわに見つめるおばさんたち。おばさんたちもしつこいが、その描写もしつこい。どこの国であろうと、どんな時代であろうと、社会が文革でピリピリしていようと、こういうおばさんはいつもこうなんだということに、妙に安心させられる場面。おばさん不変の法則。
映像は、ぴかぴかした美しさではない、さりげない美しさで統一されている。街(これは宜昌市なんだろうか?)の夏の緑のまぶしさが印象的だし、家の中なども、ごちゃごちゃしていて貧しそうなのに、なんだかきれいだ。おそらく、色が氾濫しないように抑制されているせいだろう。
紅の母親役で呂麗萍(リュー・リーピン*)が出ていたが、太っていてびっくりした。『四川のうた』[C2008-23]のときはそんなに変わっていなかったと思うが、ふつうの太りかたではない、薬の副作用とかそういった感じを受けた。どこか悪いのだろうか。