新宿へ移動して、新宿武蔵野館へ田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)の新作、『呉清源 極みの棋譜』(公式/映画生活/goo映画)を観に行く。シネスイッチ銀座でもやっているのにどうしてわざわざ新宿へ行くのかというと、新宿武蔵野館限定の前売りを(J先生が)買ってしまったからである。この映画を観る人は田壮壮めあてか張震(チャン・チェン)めあてに決まっているので、フィルメックス期間中に新宿で観るやつなんていないと思っていたらそこそこいた。その多くは呉清源めあてというか囲碁めあてのじいさんで、そういう客層の存在に初めて気づくわたし。
『呉清源 極みの棋譜』は、未見の今年の劇場公開作品ではいちばんの期待作。田壮壮は中国第五世代最後の砦である。張藝謀(チャン・イーモウ)と陳凱歌(チェン・カイコー)の堕落ぶりを昨日再確認したばかりなので(張藝謀はダメなふりをしているのだと思っていたら、ほんとにもうダメみたい)、期待は一段と高まっていた。その期待は全く裏切られることなく、田壮壮は健在というか、第五世代最後の砦はますます堅固である。これからも第五世代をひとりで支えていってもらいたい(なんでカンヌは田壮壮に依頼しなかったのだ?)。
呉清源の半生を描くこの映画は、とりあえず伝記映画である。よい伝記映画をつくるのはかなり難しい。転機となるできごとはそれなりに入れなければならないが、それを正面から描いてしまうと波乱万丈伝記ダイジェストにしかならないし、時代との関わりは必要だが、それを強調しすぎると大河ドラマになってしまう。しかしもちろん、田壮壮はそこのところはちゃんと心得ている。
エピソードの断片で描くというのはたぶん常道だと思うけれど、この映画はその断片化のしかたがかなり大胆である。「ここはどこ?」「あれはだれ?」な短めのシーンのあと、これまた短めの、呉清源自身の言葉による字幕で説明して終わり。実に潔い。李天祿(リー・ティエンルー)の半生を描いた侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の『戯夢人生』[C1993-14]で、ドラマのあいだを李天祿本人の語りでつないでいたのを連想させる。あれはすごく饒舌だったからその点は違うけれども、ありきたりな字幕やナレーションとは違うぞという姿勢に近いものを感じる。各エピソードも、決定的瞬間は周到に回避され、たとえば対局に勝った瞬間なんてものは一切ない。
そのようにしていろんなものをそぎ落としていったあとに残っているのは、呉清源の移動シーンである。先生を訪ねる、中国へ帰る、対局に赴く、あるいは宗教団体の一員として修行の場を求めて放浪する…。呉清源が歩き、走り、船に乗り、バスに乗り、車に乗る。これはまさに、呉清源が移動し続けるロードムービーである。もちろん彼の移動には、彼の心の彷徨が重ね合わされているだろう。どこかへ行くために移動するのでもなく、移動して何かをするのでもなく、もはや移動すること自体が目的のように感じられる。とにかく、移動シーン(移動撮影ではない)大好きのわたしとしてはとても嬉しい。
そのように移動する呉清源すなわち張震は、多くのシーンでマフラーをしている。そう、この映画はまた、張震によるマフラー・ファッション・ショー映画でもある。
そして画面の美しさ。日本家屋をはじめ、建物や部屋の中のたたずまいがとても美しい。この映画の舞台は戦前から戦後にかけての少し古い日本で、近江八幡で多く撮影されている。文化財的な建物で撮影された最近の日本映画は、やたら明るくて妙にピカピカした、いうなればテーマパーク映画になってしまって、「なるほど建物は渋いけど、なぜだか画面は全然渋くないね」という感じになりがちである。この映画は全くそんなところがなく、全体が抑えたトーンで撮られていて、陰影に富み、ロケ地やセットが自然に馴染んでいる。すごく周到に丹念に準備されているのだろうなあと思う。まさに「こうあってほしい日本映画」という感じだ(もちろんこれは中国映画である)。そんな日本家屋の部屋を家の中から雪が降る窓に向かって、あるいは縁側に座る呉清源を外から中に向かって撮る、ゆっくりと動くキャメラ、そして動かないキャメラ。
張震もなかなかよかったと思う。主に描かれているのは十数年程度であることもあり、あまり若く見せたり老けさせたりしていなかったのがよかった。映画祭シーズンとはいえ、一ヶ月足らずの間に三度も張震を見られるのは、なかなか幸福な映画環境である。
王ろじでとんかつセットを食べて帰る。