実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『タレンタイム(Talentime)』(Yasmin Ahmad)[C2009-09]

ユーロスペースの「ヤスミンの世界 ヤスミン・アフマド監督レトロスペクティヴ」で『タレンタイム』を再見。2009年に東京国際映画祭で観て(id:xiaogang:20091017#p2)以来の二度め。

わたしのなかでは、ヤスミン監督作品は『ムクシン』[C2006-18]が不動の一位である。一般には『細い目』[C2004-32]や『タレンタイム』の人気が高いが、そのふたつはどちらかといえばあまり好きではないほうだ。『細い目』は去年確認済みだが、『タレンタイム』は今回再見してやはりそうだと思った。

でも最初に、『タレンタイム』の好きなところから書く。まず、無人ショットがすばらしい。無人の講堂や教室、廊下。そこにある学校特有の空気。繰り返し写される、開いていたり閉まっていたりする窓。開いた窓の向こうに見える木々と、それらが風にそよぐ様子。そして、前にも書いたけれど、講堂の電燈がつくショットで始まり、電燈が消えるショットで終わるところ。

さらに、これらの無人ショットにかぶさることが多い、ドビュッシーの『月の光』。ヤスミン監督の映画はどれも音楽がふんだんに使われていて、今回はタレンタイムで歌われる歌もとてもいいが、いちばん印象的なのは映画音楽的に使われているこれ。風景にすごくマッチしている。

それから、繰り返し出てくる、主人公のふたり、ムルー(Pamela Chong Ven Teen)とマヘシ(Mahesh Jugal Kishor)のバイク二人乗りシーンもよかった。躍動感とかときめきとか、ふたりの親密さの変化とか、いろんなものが感じられて。

次に、いまひとつ気に入らないところ。まず第一に、テーマやメッセージが単純化され、前面に出すぎているところ。単純化されているといってもすぐに解決できるようなものではないし、これからがんばって民族や宗教の壁を乗り越えていってくれるだろうと、若者たちに希望を託しているのは悪くない。しかしわたしは、問題の複雑さを重層的に提示してみせた『グブラ』[C2005-49]や『ムアラフ 改心』[C2007-39]みたいな作品のほうが好きだ。

メッセージが強めに出た作品が、たまたま遺作となることによって肯定的に評価されるというのは、楊徳昌(エドワード・ヤン)の『ヤンヤン 夏の想い出』[C2000-03]がまず連想されるが、この映画もそうだし、小津の『秋刀魚の味[C1962-02]もそうだと思う。

第二に、主人公のふたりがよくない。前にも書いたように、ヤスミン映画にしては全体的にユーモアが足りないが、特にこのふたりが真面目すぎる。「ひたすらユニークなヒロイン」がヤスミン映画の第一の魅力であり、このムルーは明らかに物足りない。前にも書いたように、見た目が成熟しすぎていてフレッシュさが不自然というのもある。マヘシも、いろいろと深刻な状況に置かれているとはいえ、いつも困ったような深刻そうな顔をしているのがなんだか目障り。

第三に、今回特にフォーカスされているのがインド系であるということ。マレーシアには主にマレー系、中華系、インド系の三つの民族がいるが、わたしの興味は中華系>マレー系>インド系。したがって、インド系だとちょっとテンションが落ちる。ただ、同時期にシンガポールの邱金海(エリック・クー)監督も『私のマジック』[C2008-04]でインド系を取り上げていて、偶然なのかどうか気になるところ。またインド系には、徒とヒンズー教徒と、マレーシアの宗教的マジョリティであるイスラム教がいるため、単純に民族=宗教ではない。民族対立よりもむしろインド系内での宗教対立のほうが日常的であるところなどが描かれいている点は興味深い。

ちなみにこの映画では、それぞれインド系、マレー系、中華系の三人の男の子が登場し、いずれもムルーに思いを寄せるという設定だが、この三人がいずれもイケメン。わたしの好みからいうと、上述した民族的な興味とは異なり、断然マレー系のハフィズ(Mohammad Syafie bin Naswip)がイチ押しである。なんといってもマレーシアの赤木圭一郎だし(いや、わたしが勝手に呼んでいるだけです)。でも彼は、『ムクシン』のころのほうがイケメンだった。ちょっと繊細さがなくなったような気がする。

第四に、ヤスミン監督は、恋愛未満のときめきや切なさを描くのはうまいのに、両想いになってしまうと描写がベタな感じになってしまう。これは、マレーシア的な規制から高校生カップルにあんなことやこんなことをさせられないので、その後の進展を描きにくいというのもあるのかもしれないけれども。また、両想いになる話は、そのあとで問題が発覚して危機が訪れるというパターンであり、そこで修羅場→大泣きとなってしまうのがわたしの好みに合わない。