今日は午前中から夜までで3本。すべてアジアの風だが、中華圏映画が一本もないというめずらしい日。まず一本めは、アッバス・キアロスタミの『シーリーン』。
キアロスタミが『それぞれのシネマ』[C2007-13]の一篇、『ロミオはどこ?(Where is my Romeo?)』でやっていたことを長篇に拡張したもので、台詞や音楽といった映画の音と、観ている人の表情によって、一本の映画を見せようという試み。アイデアとしては非常におもしろいと思うが、正直かなりしんどかった。ジュリエット・ビノシュがイラン人の観客のなかにひそかに紛れこんでいても、別にうれしくないしね。
まず、観客が観ているという想定の映画の内容が問題になる。音だけである程度内容を把握させるためには、シンプルな物語であることが求められる。シンプルで、できればみんなが知っている物語。となれば、古典に題材を求めるのはごく自然である。実際この映画では、12世紀に書かれた叙事詩(ニザーミー作の『ホスローとシーリーン』)を原作とする物語が選ばれている。しかし、これはイラン国内向けにはよい選択である反面、国外向けには難がある。シンプルな物語といっても背景知識がないとわかりにくいし、だいいちそんな大昔の話には興味のわかない人も多いだろう。
また、音だけで内容をわからせようとする以上、台詞や説明が多くなり、音楽によるわかりやすい盛り上げも必要になる。しかしそうなると、「みんな感動して観ているようだけれど、あんたたちが観ているその『シーリーン』といい映画、いいの?」とつい問いかけたくなる。もちろん、頭の中には、「たいしていい映画じゃないんじゃないの?」という疑問が渦巻いている。
さらに、観客の表情で映画の内容を語ろうとする以上、人によって反応にあまり違いがあってはいけないということはわかる。わかるけれども、みんなが同じような反応をしていることに、どうにもなじめない。まず、みんながみんな、すごく熱心に観ていること(それ自体はたいへんいいことだが)になじめない。どうして誰も爆睡したり、うつらうつらしたり、大あくびしたり、音をたてて飲食して隣の人に怒られたりしていないのか、とつい考えてしまう。みんなが同じところで泣くにしても、涙をこらえようとする人とか、涙をぬぐう人とか、号泣してしまう人とかはいないのか。なぜみんな、涙が流れるままにしているのか…。
つまりこの映画は、見かけはドキュメンタリーのようでいて、実際はどんな波乱万丈のドラマをも凌ぐほどに、あり得ないフィクションである。そのことは頭では理解できるが、「映画を観る」という、映画ファンにとって最も身近な行為が題材となっているだけに、そこにリアリティを求めないでいることはかなり困難なのである。
しかし、この映画を中華圏でリメイクしたらおもしろいと思う。観客を演じるのはある程度以上知られた女優にする。その中に、今売り出し中の若い女優や、引退や休業をしている有名女優(たとえば林青霞(ブリジット・リン))、あるいは女優ではない有名人などももぐりこませておく。それを「あなたは何人わかりましたか?」というノリで観る。ぜったい楽しいので、誰か実現してくれないだろうか。観る映画は『夜と霧(天水圍的夜與霧)』[C2009-15]がいいなあ。