『世界見世物づくし』読了。
- 作者: 金子光晴
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2008/08/25
- メディア: 文庫
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これまでにほとんど読んだことのない内容としては、南京やジャワについて(『古都南京(1)(2)』『無憂の国 - 爪哇素描』)、あるいは革命後の新中国について(『支那思想の終焉』)。『支那思想の終焉』には、次のように書かれている。
……大きな肖像ポスターの前で悠然としていられる毛主席は、偉大な心臓の持主だとおもうが、七億の人間に朝から晩まで「ありがたや」を繰返させていねば安心できないことは、それだけの強制を必要とする政権が、いかに多くの人間性の自由を犠牲にした精神的危機のうえにのっているかということを物語っているようにおもわれてならないのである。
……ともかくも、じぶんの大ポスターを平気で広場にかざらせておく大政治家を、私は好きになれない。(『支那思想の終焉』pp. 29-30)
1968年の時点で新中国の現実を見通していたというよりも、イデオロギーとは別に、新中国が金子光晴好みの中国といかにかけ離れたものになってしまったのかを表しているように思われる。
もうひとつ、ふんふんと思ったところを挙げておく。
亡命人は、逃亡中の犯罪者とおなじではない。じぶんの正義と誇りをもっていて、それを立て通すことができないために亡命しているという、もともとの高い姿勢を崩さないかぎり、一種の貴族でいることができる。島国の日本からは、政治的な亡命人も、思想的な亡命人も、犯罪逃亡者とあまり変らない待遇をうけているようであるが、そのためか、高姿勢は、それを持つより以前にくずれてしまっているといった按配だ。立憲国家のうちでは、とりわけ国家権力の圧力の大きい国で、その点では、今だに、軍の力で統制のできた群小の後進国とあまりかわらないようだ。……(『さまざまな亡命者』p. 54)