実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『雨の味』(徐詩韻)[C2006-40]

朝から渋谷へ。今日の1本目はNHKアジア・フィルム・フェスティバルの続きで『雨の味』(公式)。徐詩韻(グロリア・チー)監督のシンガポール映画である。『雨の味』は原題。台湾や香港で‘的’の代わりに‘の’が多用されていることと、小津安二郎の影響を同時に感じさせる。シンガポール映画は機会があれば極力観るようにしており、これが9本目くらいだと思うが、去年と今年続けて東京国際映画祭で上映されたのを観そびれた。映画の前にまた木曜と同じおじさんが出てきてあれこれとうるさく、「これまでにシンガポール映画を観たことがあるとしたら『フォーエバー・フィーバー』[C1998-40]だろう」などと言っていたが、こんなところまでシンガポール映画を観にくる人はもっといろいろ観ていると思う。「先日の東京国際映画祭シンガポール映画がアジア映画賞を受賞しましたね」とか言うのがタイムリーな話題というものである。

映画は、子供のころに母親に棄てられたために人を愛することに臆病になっている青年、曉齊(何維賜)が、麗兒という名(おそらく母親と同じ名前)の少女(劉孋慧)と出会い、人を愛する勇気を取り戻すまでを描いたもの。想定自体の納得性は非常に高いのだが、それを納得性をもって映像化するのはかえって難しい。この映画では、母親に棄てられた記憶とそのときの「雨が降る前の匂い」を結びつけたのがよかったと思う。匂いと記憶との結びつきは納得性も高いし(詩人も書いてますね)、映像からはわからない新たな感覚を導入することによって映画に広がりが出る。映画の中では「雨が降る前の独特の匂い」と言っていたが、それは雨の匂いと同じだと思う。どうして雨に匂いがあって、雨が降る前からその匂いがするのか、というのがわからない(わたしは知らない)だけに、雨の匂いにはなんとなく心をくすぐる特別なものがある。シンガポールの雨は一、二度経験しているはずだが、雨の匂いの記憶はない。大雨の中をホテルに帰ってドリアンのシュークリームを食べた記憶があるが、ドリアンの季節だと雨の匂いはドリアンの匂いにかき消されてしまう気がする。

主人公の分身というか、心の中で彼を励ましたりなぐさめたりする存在である‘恐龍’(字幕でこれを「コンロン」とカタカナ書きするのはちょっとまずいと思うのだが)を、実在の青年のように描いている。このような手法は基本的には好きではないけれど、この映画ではあまり気にならなかった。恐龍が実在の青年で、彼は実は曉齊が好き…という想像もちょっとしてみたが(いえ、私は腐女子ではありません)、演じている何和鴻が美少年じゃないのでいまいちだな。

舞台はおそらくシンガポールの郊外で、HDBフラットが建ち並んでいるところ。夜のシーンが多く、人気のないところに曉齊や麗兒がぽつんといる感じや夜の暗さ、何度も出てくる橋などが印象に残る。曉齊はあまりにも口数が少ないけれど、心のなかで逡巡していて言葉が出てこないもどかしい感じが、夜の空気とマッチしてリアルな存在感を感じさせた。HDBフラットから突き出た洗濯物が画面の端で揺れているファースト・ショットや、HDBフラットが建ち並ぶところを横移動していくタイトルバックもよい。

麗兒の着ているTシャツが、日が替わると替わるけれど、そのうちまた同じのにローテーションするところにリアリティがあった。最近観た『婚礼の前に』[C2006-37]や『遠い道のり』[C2007-08]で、旅行かばんは小さいのに旅先での服がヴァリエーションに富んでいる(旅行の荷物を減らすのには命をかけているのでこういうのには敏感)のが気になったのと対照的。