実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『夜の上海(夜。上海)』(張一白)[C2007-04]

朝っぱらからセガフレードでアッフォガートを食べてから、渋谷Q-AXシネマで張一白(チャン・イーバイ)監督の『夜の上海』(公式/映画生活/goo映画)を観る。初回はガラガラで、舞台挨拶のある次回も空きがあるようだ。日本人ゲストのみなので、舞台挨拶には興味がない。

日中台港からスターを集めた日中合作映画。日本からは本木雅弘、中国からは趙薇(ヴィッキー・チャオ)、台湾からは郭品超(ディラン・クォ)、香港からは李璨琛(サム・リー)。しかし、ひとことでいって琴線にふれるところの全くない映画だった。極端すぎる人物設定や表面的なストーリーは心に響いてこないし、笑わせるための大げさな演出もほとんど空回りだし、カメラワークも垂れ流し続けられる音楽も凡庸である。だからあまり詳しく語るつもりはないが、気づいた点をいくつか。

  • 上海を舞台にした一夜の物語でほとんどがロケ。とくれば、「夜の上海がいかに魅力的に撮られているか」が成功の鍵であろう。ところがこれが全然ダメ。都市の生々しさや息づかいといったものが全く感じられない。新旧の上海はどちらもそれなりに出てくるが、印象に残るところがない。張一白は、『アバウト・ラブ 関於愛[C2004-29]ではもう少し魅力的に上海を撮っていたと思うが。遠くの高架の上を電車が走っているショットが何度か出てくるのだけは少し印象に残ったが、あまり効果的に使われてはいない。
  • タイトルが“夜。上海”だったら、当然、周璇(チョウ・シュアン)の“夜上海”が使われるのを期待する。使ったら使ったで「ベタすぎ」とか言われるのかもしれないけれど、たとえば趙薇によるカヴァーをエンディングに使うとかいうのがファンサービスというものではないだろうか。それだけでなく、中国語曲が全然使われていないのにもがっかり。
  • 身なりに気を遣っていないタクシー運転手の趙薇が、最後にヘアメイクアーティストのモックンの手で美しく変身する、というのがこの映画の見どころのひとつなのだけれど、そこに全然驚きがない。変身前は、わざとらしく寝ぐせがついていたりはするが、無造作な髪型もファッションも、気を遣っていないというよりかわいく着くずしているように見える。それに顔のつくりが派手なので、メイクで変わるというより、すっぴんでも十分かわいい。
  • 郭品超ってどこがいいのかよくわからないというか、全然私の好みではないのだが、どう見ても修理工には見えない。婚礼衣装の試着をしている(これは結婚写真の店だったけれど、本当に結婚式用の衣装の試着だったのだろうか?)ところなんて、まるでコマーシャルのようだった。

リアリティを求めるべきタイプの映画ではないのだろうが、全体的にいって、中国色の希薄な、人民不在の映画である。

日本とアジア諸国との合作は、様々な形態で増加しているが、いちばん成功しているのは、才能のある映画作家にお金と技術を出してなるべく口は出さない、というパターン。いちばん失敗しているのは、この映画のようなスター中心の娯楽映画。ムービーアイは、『最後の恋,初めての恋』[C2003-16]、『アバウト・ラブ 関於愛』、それに本作と、ぱっとしない合作映画を作りつづけている。このような合作は1960年代にも盛んに行われていて、当時のほうが質の高い映画が作られていたように思う。もちろん、当時のような大映画会社同士の合作とは状況が異なるが、過去の経験が蓄積され、生かされていないように思われるのが気になるところ。過去の合作映画をどの程度勉強しているのか知らないが、それらから学ぶところもあるように思う。

映画のあと、昼ごはんを食べたり、九段にお菓子を買いに行ったりしてから、新宿武蔵野館で『サイボーグでも大丈夫』を観ようとしたら、まだ30分以上前だったのにすでに満席で諦める。『サイボーグでも大丈夫』が観たかったというより、今日観た映画が『夜の上海』だけ、というのが情けなくて、諦めきれない心境だった。