実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『小津安二郎のまなざし』(貴田庄)[B229]

小津安二郎のまなざし』読了。

小津安二郎のまなざし

小津安二郎のまなざし

この本は、出た直後に読み始めてなんとなく挫折した本。考えてみれば、小津の批評本はけっこう持っているが、吉田喜重のもドナルド・リチーのもデヴィッド・ボードウェルのも佐藤忠男のも読んでいない。端から手をつけていないものと、読み始めて挫折したものとが半々くらい。

この本を発掘してきたのは、『物語映画の時空間分析−小津映画を素材として−』という論文を読んだ(id:xiaogang:20070614#p1)のがきっかけ。似たようなことがこの本に書いてあったような気がして、パラパラめくってみた。書かれていたのは似て非なることだったが、なかなかおもしろそうなので「なんで挫折したのかな?」と自問しつつ、再挑戦することに決める。

今度は挫折せずに、けっこうおもしろく読んだ。小津映画の特徴に関わるテーマを16取り上げて映像を分析しながら、「フェイドはいつからなくなったのか」とか、「カーテン・ショットはいつから始まったのか」とか、「移動がないと言われているが、ないことないわ」とかいったことを論じていて興味深い。

しかしとまどうのは、この本がいきなり始まっていること。「はじめに」も「まえがき」もなく、いきなり「1 編集」である。「編集」から「映画と文法」まで並んでいるタイトルは、いったい何を表していて、この並びによって何を言おうとしているのか。各テーマは独立ではなく、相互に関連しているのに、全体を俯瞰するような記述がない。そして終章の、結論めいた「小津的であること」にまた驚く。ここでは、小津に影響を受けたという監督や小津的と言われることの多い監督(でもかなり偏っている)の作品について、かなりムキになって「全然小津的ではない」とけなしたあと、強引にものすごく抽象的な結論のようなものが導かれており、唖然とするばかりである。著者は美術系の人なので、かなりそちらの視点が入っていて、その点での違和感を感じるところもある。

それから、この本に限らず文系の人の本を読むとよく感じることだが、せっかく分析したデータがあるのに、どうして表なり図なりヴィジュアルな形にしないのだろうか。「たしかこういうことが書いてあったはず」というのを探すのに、わざわざ文章を全部読まなければならないのはたいへんだ。Googleブック検索の対象になっていればまだいいのだが、今のところそうではなさそうである。