実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『蟻の兵隊』(池谷薫)[C2005-37]

シアター・イメージフォーラムへ『蟻の兵隊』(公式映画生活)を観に行く。昼過ぎの回はけっこう混んでいるが、満席ではない。

中国山西省終戦を迎えたにもかかわらず、軍の命令で残留させられ、中国の内戦を国民党軍として戦った日本軍の兵士が、志願による残留とみなされて恩給などの補償を受けられずにいるという問題を取り上げたドキュメンタリー。日本軍山西省残留問題を描いた映画であると同時に人間を描いた映画であり、戦後は決して終わっていないということを強く印象づける映画でもある。

この映画は、元残留兵で、戦後補償を求める訴訟の原告のひとりである奥村和一氏を中心に据え、あくまでも人間を追ったドキュメンタリーである点が魅力だ。キャメラは彼のパワフルな行動を追い、表情を捉え、もどかしくも論理的な彼の言葉を記録する。同時に、彼が出会う様々な人々の表情を追い、彼らの言葉を記録する。

この映画の最も驚愕すべきシーンのひとつは、残留の経緯を知る宮崎氏を病院に見舞うシーンだ(このあたりが鎌倉ロケ←ロケとは呼ばないか)。病気のためにもう何もわからなくなっているということなのに、奥村氏の語りかける言葉に反応して泣き喚くように叫ぶ。その苦しそうな叫びと、その背後にある、自分の知っている事実が事実として通らない無念さに心をゆさぶられる。同時に、奥村氏や監督は、何かを期待して病院に行ったのだろうか、というようなことも思った。予期せずにこの瞬間に立ち会ったとしたら、監督にとってはまさに映画が動く一瞬だったに違いない。一方、奥村氏は何かを予期していたのではないかという気がする。

この映画のもうひとつの魅力は、正義という観点からのみ問題が描かれているわけではないということである。奥村氏は、元残留兵が事実に反して正当に扱われていないという動機で行動を起こしているわけだが、一方で、自分がかつて戦争で人を殺した加害者であるということを忘れることはない。軍隊では、ふつうの善良な一市民を殺人マシンにする教育が組織的に行われていたと彼は語る。兵隊に行った人が殺人や強姦をしたとかしなかったというのは個人の問題ではなく、軍隊というシステムの問題だとも言う。一方で、そういう教育の中で、殺人マシンになってしまう資質というか本能というかそういったものを人間が持っているということもまた事実であり、奥村氏はそのことにも自覚的だと思う。

かつての戦場であった山西省を訪ねた彼は、残留に関する閻錫山と澄田軍司令官との密約の証拠を探すと同時に、かつて自分が中国人を処刑させられた、その事件の真相を知る人や、日本軍の侵略の被害者にも会い、話を聞く。時に日本軍の立場から相手を問い詰めてしまい、相手を戸惑わせてしまったりもする。負い目をもちながらも卑屈になることはなく、一歩踏み込むことを恐れない真摯な態度は、自分が加害者であるということとちゃんと向き合ってきた人だからこそではないかと感じる。また、ノスタルジーとも表面的な和解ムードとも無縁の、だからといって国家の立場に立って反目しあうわけでもないこのような場面に、戦争を語り継ぐということのひとつの可能性をみるように思う。戦争や歴史を語り継ぐということは、ひとつの国家の中だけでできることでもないし、やるべきでもなく、加害者と被害者が向き合って進めていくべきだと思う。奥村氏のような一兵士は、加害者であると同時に、国家による侵略戦争に利用された被害者でもあるわけだが、個人においても、加害者と被害者のどちらかだけではなく、両方の面を見つめていく必要があると思う。

最後に、奥村氏らが起こしていた裁判の結果は本当に理不尽であるけれども、いくら三権分立が建前でも、司法が国家という枠組みの下にあるかぎり、大勢の人が泣き寝入りをさせられるのは避けられないだろう。こういった裁判も、国際的な枠組みのなかで行われるべきであると思う。