実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『バッシング』

今日のフィルメックス1本目は、小林政広監督の『バッシング』。イラク人質事件から着想された映画ということで、最初に「この映画はフィクションです」と出るのは予防線みたいなものかと思ったが、本当にフィクションだった。

なぜボランティアでイラクへ行くのか、あるいはなぜそういう人をバッシングするのかを考えるとき、イラクが戦争状態でテロも多いこと、物資や援助が行き渡っていないこと、日本が戦争に加担していること、外務省の退避勧告が出ていること、国の法人保護の義務といったことが話題に上る。しかしこの映画では、そういった政治的なことや論理的な議論は一切排除されていて、感情的な面のみがとりあげられている。ボランティアというのは、天使のような立派な人が行う無償の行為ではなくて、その本質は自分が人の役に立っているということからくる自己満足だと思う。また、何らかの根拠に基づく論理的な批判であれば議論になる余地があるが、感情的なものであるほどバッシングにつながりやすい。そのように考えると、この映画が感情的な面だけを取り上げていることは納得できる。

この映画にはイラクという地名も出てこないし、主人公が何をして、なぜバッシングを受けているのかも、断片的なわずかな言葉でしか語られない。でもこれを観る私たちは、実際のイラク人質事件のことを知っていて、それによって欠落した部分を埋める。だけどここで語られる物語は、実際の事件やその関係者とは全く関係のない、全くのフィクションであって、たぶん現実にはあり得ない話だ。登場人物は、主人公の家族と、地理的なつながりをもつごく少数の人だけで、ボランティア仲間も支援者も出てこない。監督は、あの事件の記憶を前提としつつ、ある絶望的な状況に置かれた人物のささやかな再生の物語を、現実とは全く別のものとして作り上げている。このことは非常に野心的な試みだと思うし、そのようにみたとき、終盤主人公が継母と心を通わせる場面や、ラストシーンの少し明るくなった彼女の顔がすごく心に残る。

しかし気になるところが少なくとも二点ある。ひとつは、彼女がボランティアに行こうとする理由があまりにも抽象的なことだ。これではボランティアをする理由にはなっても、なぜイラクなのか、なぜ危険や批判を承知で行くのかという説明にはなっていない。政治的な主張は持ち出さないにしても、彼女自身の体験に基づくもっと具体的で個別的な理由を語ってほしかった。理由が彼女のコンプレックスと結びつけてしか語られないのも、もう少しどうにかならなかったのだろうか。ここで「えっ、それだけ?」と思ってしまったのは私だけではないだろう。

もうひとつは、感情的な面をとりあげるだけで本当にいいのかということだ。実際は、イラクの状況などの外的な要因と、感情的な内的な要因がミックスされた結果としてイラクへ行く決断をするのだと思うし、名もない人々が感情的にバッシングをしてしまう背後には、政治的にそれを煽動する政府やマスコミが存在している。答えは出ていないけれど、それらを描かなくて本当にいいのかという疑問はやはり残る。ただひとつ言えるのは、あの事件に関連してもっとたくさんの映画が作られていれば(作れない、あるいは作っても公開できないという現状がそもそも問題なのだが)、「こういう作り方、捉え方もあるよね」と単純に言えるのに、これひとつしかないために、観る側があれもこれも、いろんなものをこの映画に求めてしまうのだと思う。

映画そのものに関していえば、海のそばにアパートがぽつんと建っている荒涼とした風景や、何度も出てくる、主人公ががしがし自転車をこいでいるシーンや、おでんをがつがつ食べる長回しなど、けっこう好みだった。おでんを食べるシーンは、おつゆを飲まない私としては、撮影が辛そうだなとか、たしかワン・カットだったので、NG出したら死ぬなとか思いながら観た。でもあのおでんの買い方はエコじゃないよね。コンビニのおでんを買ったことは一度もないが、あの容器は洗って「プラ」の日に出さないといけないから、私だったら大量に買っても「なるべくひとつに入れてください」と言うと思う。

上映前に小林政広監督と出演者による舞台挨拶があり、上映後に監督を迎えてQ&Aが行われた。舞台挨拶とQ&Aの採録こちら([亞細亞とキネマと旅鴉]の[映画人は語る])。