実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『パープル・バタフライ』

婁[火華](ロウ・イエ)監督の『パープル・バタフライ』の初日に行く。この映画は、2003年末に台北に行ったときに公開直前だったが、日本ではやっと公開された。台湾で前売り券を買うと、サントラCDとかその監督が撮った短篇のVCDとか、かなり嬉しいものがついてくるらしい。日本では、「そんなもん欲しいやついるのか?」というロクでもないおまけがついていて、毎度そんなロクでもないものを考えつくことに逆に感心させられるくらいだが、台湾を見習うか値段を下げるかしてほしいものである。

映画は、目まぐるしく切り替わるショットと長回しの組み合わせによって、台詞が極めて少ないにもかかわらず、起きていることも登場人物の背景もすべてきちんとわからせていて、なかなかうまいと思った。ただ、画面を追うのにかなりパワーを使ってしまうせいもあって、登場人物の感情の動きがちょっと伝わりにくい。それから劉[火華]の絡み方がちょっと中途半端な気がする。

1928年には長春であったところが新京となっているなど、歴史考証のいい加減さからもわかるように、この映画は抗日映画ではないと思う。章子怡(チャン・ツィイー)、仲村トオル、劉[火華](リィウ・イエ)の三人が、時代や政治や戦争といったものによって敵対する立場に置かれてしまうという状況を作りだすために、その格好の舞台として1930年代初頭の上海が選ばれている。上海にずっとこだわって映画を撮っている婁[火華]監督だけに、モダンな音楽やダンスやファッションと、デモやテロや陰謀の混合によって、30年代上海というものを濃厚に描き出そうとしている。一方、登場人物は、主体的にある行動を選択しているというよりは、置かれた状況によってそうさせられているというように描かれており、あの時代、あの戦争に限定しない普遍的なものが感じられる。章子怡が抗日運動に入るきっかけとなる兄の死は、日本人の自爆テロによるもので、自爆テロというところにかなり違和感を感じたのだが、監督はそこに今日的な問題を反映させようとしているのかもしれない。

ところでチャン・ツィイーとかリィウ・イエとかの、中国語の発音と大きく違うのみならず、日本語の表記としても意味不明の人名表記はいいかげんやめてほしいものである。