実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『ブラック・スワン(Black Swan)』(Darren Aronofsky)[C2010-59]

T・ジョイ出雲でダーレン・アロノフスキー監督の『ブラック・スワン』(公式)を観る。また痛い映画を観ちゃったよ。

バレエ『白鳥の湖』の主役に抜擢された、白鳥にぴったりの清純派ヒロイン、ニナ(ナタリー・ポートマン)が、感情を表出させることが苦手なために、黒鳥がうまく踊れず追いつめられていく話。この手の映画は、主人公が欠点を克服し困難を乗り越え、ひとまわり成長して公演を成功させて終わる、という成長物語が基本である。しかし、この映画はそうではない。ほとんど最後まで、そういうパターンに則っているかのように見せかけているが、ニナは何も克服しないし、何も乗り越えない。

苦悩するニナは、妄想に取り憑かれるようになる。彼女は繊細で自傷癖があり、かつ性的に潔癖なので、妄想は「痛い」と「エロい」の二方面に現れる。それは次第にエスカレートしていき、公演が始まるとさらにパワーアップする。彼女は妄想(をもたらすような弱さ)を克服するのではなく、妄想の中で感情を表出することを学び、妄想から力を得ることによって黒鳥を踊りきる。そうであるならば、結末はやはりああなるしかなかっただろう。

監督がこの映画でやりたかったのは、現実と区別せずに妄想を視覚化したり、その中でナタリー・ポートマンをあんな目やこんな目に遭わせたりすることだったと思われる。したがって言ってもしかたがないと思うが、ニナが追いつめられるのは、黒鳥が自分の思うように踊れないからではなく、好きな芸術監督ルロイ(ヴァンサン・カッセル)の気に入るように踊れずにダメ出しされることへの恐怖からである。しかし彼女がまずすべきなのは、自分の黒鳥をつくりだすことではないのか。そのためにはもちろん、官能的な表現力を身につけることも、精神的な弱さを克服することも必要だが、それができたからといって黒鳥が踊れるわけではない。そのあたりが微妙にすり替えられているような気がするのだけれども。

また、ニナが感情や欲望を抑制するように彼女を抑圧してきた元凶は、明らかに母親(バーバラ・ハーシー)である。そのことはルロイもある程度わかっているはずだ。であるならば、彼がすべきことは、エロいライバル、リリー(ミラ・クニス)をえこひいきしてみせることではなく、母親を遠ざける手助けをすることであると思うのだが。

ところでヴァンサン・カッセルには、ナタリー・ポートマンがうまく踊れなかったときに、杖で床をドンドンドンと叩いてもらいたかった。

表現上気になったのは、ニナがうまく踊れないことが、神経質そうな半泣きのしかめっ面で表されていることだ。始終そんな顔を見せられていては、官能的に見えるはずもない。一方、うまく踊れた公演時の彼女はといえば、京劇のような分厚いメイクをしている。踊りで見せている部分もあるけれど、素顔がわからないメイク+しかめっ面なしで表現するというのは、工夫といえば工夫だが、ずるいといえばずるい。それにこのくらいメイクをすれば、誰だってある程度自分を解放できる。ちなみに踊りでは、バキバキバキという感じで腕が最強になって、『片腕ドラゴン』[C1972-26]かと思ってちょっと興奮した。

興味深かったのは、ニナがドアを閉める行為が繰り返し描かれていたこと。まず、自宅アパートのドアを閉めて鍵をかけるというシーンが多い。家に入ることは、外のおそろしいものから守られるということであるのと同時に、そこから母親という別の(さらに)おそろしいものとの闘いが始まることを意味していて、緊張感が走ると同時に閉塞感にゾッとさせられる。また、トイレに入って鍵を閉めるというシーンも多く、自宅においてはそこが唯一鍵をかけて母親から逃れられる場所であり、外では、用を足す場所というより他人から逃れて自分を取り戻せる場所だ。だからニナは行く先々でトイレに行く。その感覚は非常によくわかる。しかし、そんな場所にも妄想は容赦なしにやってくるのがおもしろい。

ところでこのニナの役は、若き日の芦川いづみにぜひともやってもらいたい。清純+妄想+欲求不満ときたら、いづみさまの右に出る者はいない。彼女なら半泣きのしかめっ面などせずに、例の上品な微笑を浮かべつつ苦悩してくれると思う。さらに妄想シーンでは、彼女の狂信的かつ偏執狂的な魅力をたっぷり見せてくれるにちがいない。『青春怪談』[C1955-15]でいづみさまのレオタード姿にノックダウンされた人も、満足することまちがいなし。黒鳥を踊るシンデって倒錯的。まあ、官能的でないところはナタリー・ポートマンと同じだ。