実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『女であること』(川島雄三)[C1958-34]

新文芸坐の特集「巨匠たち、名優たちが生きた時代(2) - 原節子」で、川島雄三監督の『女であること』を観る。川端康成による原作は未読。

原節子久我美子香川京子という、タイプの違う美女をとりそろえた、見た目には麗しい映画。性格も三者三様だが、女のイヤなところをいろいろ見せられるうえに、三人ともいささか演技過剰でちょっと疲れる。

原節子演じる市子は、遅めに結婚して10年めくらいで、子供がなく、傍目には仲睦まじくて理想的な夫婦と思われている、という役。久我美子香川京子をめぐって夫に言う言葉がいちいち鋭いが、ぶりっ子っぽい甘えかたや、昔の恋人に会ったときの異様なまでの怯えかたなどが不自然。見た目もちょっと老けた感じで残念。

久我美子演じるさかえは、どうしようもなくウザい現代娘の役。わがままでまわりを振り回すのはいいが、やたら泣いたりわめいたり甘えたり、ウザいったらない。市子夫婦が、もて余しつつも時々かわいく感じたりするのが信じられない。わたしだったら多摩川に突き落とす。最後に自分探しみたいなことを始めるところがさらに最悪だ。

ところでこの久我美子、明らかにオードリー・ヘップバーンに似せてある。顔自体は似ていないけれど、骨格やスタイルがけっこう似ているから、髪型やファッションでおどろくほどオードリーっぽく見える。しかも「久我美子オードリーショー」みたいな見せ場も用意されている。もちろん、ストーリー上はなんの必然性もない。わたしはオードリーにあまり興味がないのと、さかえのキャラクターがオードリーのイメージに合わなさすぎるのとで、たいして感心はしなかった。だいたい、大阪弁のオードリーなんて。

香川京子演じる妙子は、殺人犯の娘であるために世間に怯えて暮らす暗くておとなしい役。香川京子らしい可憐な役だが、不自然なほどにおどおどしていてイラつく。男ができてからの変化もわかりにくい。

このように、見た目はたいへん美しいが、どうも暑苦しい雰囲気のヒロインたち。そんな女たちのなかの一服の清涼剤。それは中北千枝子である。そういえば成瀬映画以外の中北千枝子ってぜんぜん記憶にないのだが(最悪の『素晴らしき日曜日』[C1947-10]を除く)、ここでは成瀬映画でもよくある感じのお手伝いさん役。最初はけっこうぷりぷりしていて、「そこがまた中北千枝子っぽくていいわあ」と思っていると、実はけっこういい人だったりして、彼女の一挙手一投足に釘づけ。この映画の裏ヒロインといえよう。

いっぽう男性陣は、市子の夫の佐山が森雅之若い娘たちからも憧れられる「すてきなおじさま」の資格は十分だし、山村聰とは違って観ていて快適。しかしわたしが思うに、森雅之というのは、常に女性より優位に立ち、常に女性を誘惑する側の人である。したがって、さかえの誘惑に怯えたり、あそこまで持ちこたえておきながらあそこで陥落するというのは、どうも森雅之らしからぬと思う。『千羽鶴[C1953-19]と同様、ミスキャストではないのか。

市子の昔の恋人、清野は三橋達也三橋達也から森雅之という原節子の男性遍歴はなかなかうらやましい。しかしこの三橋達也はいまひとつパッとしない。実年齢よりかなり年上の役なので、老けメイクをしているらしいのが失敗の原因か。もうひとり、さかえの幼なじみで市子を崇拝する光一は太刀川洋一。前のふたりに比べて遜色ありすぎである。ちなみに、これまで彼の名前をよく知らなかったので、いつも「ニセ川口浩」と呼んでいた。