再三がっかりしたと言っておきながら、あまり憶えていないこともあり、原作を読むとやはり映画が気になる。せっかくJ先生のいないるんるんの夜なのに(本人いわく職場の合宿)、DVD-Rを引っぱり出して溝口健二の『武蔵野夫人』を観る。
- 出版社/メーカー: 東宝
- 発売日: 2006/09/22
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そんなクライマックスシーンのないものを観て、いいとか悪いとか言うのは適切ではないと思うけれど、そのシーン(があるべきところ)に来るまでにいいかげんうんざりした。脚本と配役がひどすぎて(音楽も過剰)、映像とか美術(宮地の家はすごくよかった)とか武蔵野の自然とかでは補いきれない。
原作が地の文で大量に説明しているのを、字幕やナレーションを用いずに映画化しているので、その分は主にシーンと台詞の追加となって現れる。勉が道子の家に下宿するところからではなく、道子夫婦が実家に疎開してくるところから始めてしまったのと、状況説明のために追加されているシーンが多すぎるのとで、道子、秋山、富子、勉の関係とその変化をじっくり描ききれず、「武蔵野夫人ダイジェスト」になってしまっている。
勉が道子の写真を撮るところとか、死ぬ直前の道子を勉が見ていたところとか、映画にするならここでしょうというシーンがないのもがっかり。台詞もやたらと説明的で、かなり詰め込まれているので、みんな急いで台詞を消化していますという感じ。原作では、恋愛とか道徳とかいった心の問題よりも、経済問題とか家とか習慣とかが大きなポイントを占めているのが印象的だが、そのあたりも十分に描かれてはいない。
配役は、前述したように田中絹代と片山明彦というのがどうしようもなくダメ。だいたいこの二人、『おかあさん』[C1952-11]では親子でしたよ。映画の中ではさすがに29歳とは言っていないが、勉は道子をときどき「姉さん」と呼んでいるから、やはり年の差は10歳以下だと思われる。でも、「姉さん」と呼ばれるたびに、いちいち「「おばさん」と呼べよ」とつっこむのをやめられない。わたしが姪と甥に(無理やり)「おねえさん」と呼ばせていることはこの際タナに上げておこう。
従姉弟どうしという異性を意識しにくい間柄なので、映画で観客を納得させるには、まずは見た目の納得感が必要だと思う。第一にふたりとも美しくなければならない。さらに、子供のいない道子は年よりも若く見え、反面、人妻ならではの色香がなくてはならない。勉は若くてフレッシュで、反面、家庭に恵まれない育ちや復員兵の鬱屈から、大人びた陰影がなくてはならない。疲れたおばさんにしか見えない田中絹代と、やたらと子供っぽいうえに、ネームバリューも足りない片山明彦ではダメだ。ふたりがお互いを意識するシーンなど、やりたいことはわかるけれど、リアリティがなさすぎる。
秋山に森雅之、富子に轟夕起子というのはわりによかったが、森雅之は期待したほどではなかった。轟夕起子も、まだそれほど貫禄が出ていないころだけれど、小説の富子のイメージよりよほど強そうだ。富子の夫の大野が山村聰で、「ヤな男」俳優そろい踏みだったけれど、大野は特にヤな男でもないので格別印象に残らなかった。