実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『高麗葬』(金綺泳)[C1963-35]

これまた今年の映画祭初のひげちょうで魯肉飯を食べてから(食べてばっかり)、シアターコクーンへ。今日の2本めはアジアの風の『高麗葬』。文化村の入口を入っていくと、そこに見慣れた顔を発見。映画祭で見慣れた顔を見るのは珍しくないが、ふつうの見慣れた顔ではない。なんと、フィルムセンターの超常連のじいさんだ。ル・シネマでやっている「映画が見た東京」か、それともまさか『高麗葬』かと興味津々でいたところ、なんとシアターコクーンへやってきた。さすがだな、きっと来ると思ってたぜ。

この『高麗葬』は、「ディスカバー亜州電影」という、幻のアジア映画の発掘上映である。大きな声では言えないが、実は金綺泳(キム・ギヨン)監督の映画を観るのは初めてだ。『下女』とかずっと観たいと思っているが、なかなか機会がない。今回も、当初は観られない予定だったが、取れないチケットが重なって観られることになった。10巻のうち2巻が失われているということで、不完全な形での上映だったが、そんなことはチラシにもサイトにも書いてなかった。知っていてももちろん観るが、やっぱり書いておくべきだと思う(インフォームド・コンセントというやつだ)。この失われた2巻分は、あらすじの字幕が入っていたが、物語的に山場の特におもしろそうな場面なので、どこかから出てきてほしいものだ(もしかして金正日がもっているんじゃないか)。

映画は、巫堂の占いに支配される村で、彼女のかけた呪いによって35年間も憎み合う二つの家族を描いたもの。ひとつめの家族はやもめの男性とその10人の息子。もうひとつの家族は、そこに後妻に来てすぐ離婚した女性とその連れ子である。どちらかといえば10人兄弟が悪者で、連れ子のクリョンはそれに比べればいい人だが、だからといって善人というわけではない。そもそもそのような勧善懲悪の図式ではなく、単純な二項対立では語れない世界なのだ。クリョンは10人兄弟の策略で毒蛇に噛まれて足が不自由になり、それが原因で夫婦は離婚するのだが、もとはといえばクリョンが、10人兄弟に隠れて自分だけ母親に芋をねだったことが発端である。悪いのはあんただ。

舞台は、雨が降らず、慢性的に飢饉に苦しむ貧しい村。食べ物も水もない極限的な状況のなかで、人間の醜い面があらわになっていく。親子の愛情といったものも描かれてはいるが、善と悪は渾然一体となっている。食べ物や水をめぐる争いや策略に、びっこやあばたといった肉体的欠陥、それに儒教の呪縛や村の閉鎖性などが加わって、おどろおどろしい世界が展開する。終盤、山に捨てられた母親がどうなるかは描かないだろうと思ったら、これもしっかり描かれていた。この母親の死の場面から、それによって雨が降りはじめ、恵みの雨のはずなのにただならぬ不吉な気配が漂いまくるあたりが特に圧巻。全篇を通してとにかく圧倒される、一度は観るべき映画だと思うが、これが好きかといわれるとちょっと困る。

冒頭にイントロダクションみたいな部分があって、人口抑制の公開討論会の様子が映し出される。ここで歴史学者によって、「昔は70歳になったら山に捨てた」という話が紹介され、それをきっかけに映画の物語に入っていくのだが、この討論会の様子がすごかった。パネリストの学者が専門知識を披露すると司会者が聴衆に向かってそれに対するコメントを投げかけるのだが、聴衆は笑っていたが観ている私はドン引きした。このイントロダクションは秀逸。

巫堂の占いに翻弄される村人たちは、支配者のスローガンに踊らされる国民の比喩なのだろう。個々の具体的なイメージの圧倒的な力は、映画のメッセージやエンドマークのあとに来るかもしれない平和な未来を、色褪せた嘘っぽいものに感じさせてしまうかもしれない。しかし、独裁政権下の韓国において映画にこめられたメッセージは、今の世界の私たちにこそ向けられているのではないか。巫堂を殺し、神木を倒して、復讐の連鎖を断ち切るべきだと。