実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『わたしの渡世日記 (上)(下)』(高峰秀子)[B1204-上][B1204-下]

所用で三日間帰省した帰り、『わたしの渡世日記』読了。デコちゃんこと高峰秀子の自伝エッセイ。

わたしの渡世日記〈上〉 (文春文庫)

わたしの渡世日記〈上〉 (文春文庫)

わたしの渡世日記〈下〉 (文春文庫)

わたしの渡世日記〈下〉 (文春文庫)

もう子役とはいえない歳になってからのデコちゃんの映画は、前期と後期に分けられる。この本(上下二冊に分かれているのでこの言い方はおかしいが、面倒なのでまとめてこう呼ぶ)の内容から推測するに、その境界は1951年のパリ遊学である。前期デコちゃんは、どことなく子役の面影を残した明るく快活なイメージ。後期デコちゃんは、独特のけだるい喋り方をする大人の女。現役をほとんど退いてからの彼女のインタビューは、辛辣でシニカルでドライで、とてもおもしろいが、それらを読むときの音声映像は後期デコちゃんの声である。『わたしの渡世日記』も、やはり頭の中はデコちゃんの声になるが、こちらは前期デコちゃんだ。

前期デコちゃんの中でも、特に『宗方姉妹』(asin:B0000ZP46U)のデコちゃんのイメージとぴったり重なる。前期デコちゃんの映画はそれほど観ておらず、『宗方姉妹』が突出して印象に残っているということもあるが、『宗方姉妹』のデコちゃんを連想してしまうのは、主にその文体のためだと思う。この本の文体は「であった」が基調。『宗方姉妹』の中で、デコちゃんが姉・田中絹代上原謙のロマンスを想像して語る物語の、まさしくあの文体なのだ。「であった」調は全体の雰囲気を硬くしているが、その中にしばしば少し乱暴な口語的表現が混入していて、その混じり具合が絶妙である。

もとは週刊誌の連載なので、各節がひとつのエッセイとして読めるようになっており、全体としては年代順に進んでいくが、各節の中心となる人や出来事については、その後の展開までまとめて書かれている。年代順という全体の構成からみると脇道にそれている部分が、ひとつひとつのエッセイの中では主要な筋となっており、なかなかうまいと感じさせる。

全体としてすごくおもしろいのだけれど、ただおもしろいだけではなく、まっとうな歴史認識をもっているのと、自身の戦争責任に自覚的なところに好感をもった。自分自身を少し離れたところから客観的に見たり、ものごとをいろいろな角度から見たりするのが彼女の文章の特徴だが、それは戦争を見る際も同じである。

そのほか、次のようなところが印象に残った。

  • 『与太者と海水浴』の頃から、(俳優としての)三井弘次をチェックしていた。
  • 子役時代、徳大寺伸に可愛がられた。
  • 『小島の春』の杉村春子の名演技にショックを受けた。