仕事以外では今年初の出京。やはり今年初のひげちょう魯肉飯で昼ごはんを食べてから、シアター・イメージフォーラムへ。ずるずると二月半ばになってしまった今年の初映画は、韓国アートフィルム・ショーケース(KAFS)という特集の『キムチを売る女』(公式/映画生活)。
韓国アートフィルムとはいえ、これは朝鮮族の中国人を描いた映画で、どちらかといえば中国映画。どうやらロケ地は(舞台も?)北京の北の方らしい。2005年の映画だが、舞台は2003年の夏だと思われる。郊外の寂れた小さな駅に、体温検査のカウンターがあるからだ。すでにSARSはおさまったあとで、誰もマスクはしていないし、検査も形ばかりだけれど、冒頭から映し出されるこのカウンターが不吉な物語を予感させる。
ヒロインの順姫は、そんなに似ているわけではないけれど、濃いめの眉毛とワンレングスっぽい髪型が、『いますぐ抱きしめたい』のころの張曼玉(マギー・チャン)を連想させる。朝鮮族のほとんどいない地域に移り住んだ彼女は、朝鮮族であることを誇りにし、ある意味では売りにして、屋台でキムチを売って生計を立て、息子と二人で暮らしている。映画は、簡単にいえば、そのような彼女の生活が崩壊するさまを描いている。
まず惹かれるのは、画面から溢れ出る乾いた初夏の空気感だ。久しぶりの映画であるだけに(この前観たのはフィルメックスの『黒眼圏(黒い眼のオペラ)』だったと気づいてかなりショック)、やはり映画館で観る映画はいいなあ、と思わされる。そしてフィックスのワンシーン・ワンカット。ここらあたり、私好みの映画だ。
順姫の身の上にはいろいろな出来事、いろいろな変化が起こるのだが、劇的な場面は省略されてその前後のみが描かれるか、あるいは映っている画面の外側(たとえば隣の部屋や家の中)で起こる。その代わり、キムチの材料を洗ったり、シャツにアイロンをかけたり、キムチをビニール袋ですくったりといった順姫の日常の動作が、繰り返し丁寧に描かれる。寡黙な彼女は、ひどい目に遭っても、泣いたりわめいたりする代わりに煙草を吸う。順姫がかかわりをもつ男たちは彼女を踏みにじる者として、女たちは(男たちのパートナーを除いて)共感しあう者として描かれている。下心をもって彼女に親切にする男たちは皆ロクでもないが、彼らも彼女を不幸にしたかったわけではなく、いろいろなことがすべて悪いように重なって彼女を追い詰めていく。
絶望とも希望ともとれるラストは、キャメラの動き、移動の方向、順姫の服装など、すべてがそれまでと対照的に描かれていて鮮やかだが、幾分頭で撮っているような感じもしてちょっと引っかからないでもない。
ところで、この映画には無差別テロが描かれている。テロという行為は、無関係の人を巻き込んでしまうという意味では正しいとはいえない。けれども、テレビなどで「テロは誤った行為だ」と、堂々と、胸を張って、何の疑問も感じずに唱えている人々を見ると、私はいつも違和感を覚える。何物をも持たない者が、世界に向かって自分の存在を訴えるのにいかなる手段を持ち得るのか。そういうことに対して、あまりにも想像力がなさすぎるのではないか。この映画は、(狭義の)政治的な文脈をもたないところで、持たざる者の抵抗という意味でのテロを端的に表現しているのではないだろうか。
映画のあとは、これまた今年初のとんきで晩ごはんを食べる。うますぎる。東京には行かなくても生きていけるが、とんきに行かないと生きていけない。一ヶ月半も間があいたせいか、「まいど」と言ってもらえなくて寂しかった。