実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『好男好女』(侯孝賢)[C1995-11]

2週間前から始まっているシネマヴェーラ渋谷のホウ・シャオシエン映画祭に、今日初めて行く。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は私の最も好きな映画作家のひとり。もちろん全作品スクリーンで観ているし、なんらかのメディアで所有もしている。この機会にスクリーンで観直したいという気持ちが半分、家でいつでも観られるからいいやという気持ちが半分。結局、今週末のみで4作品を観ることにした。

一本目は『好男好女』(映画生活)。映画中映画部分の原作である『幌馬車の歌』(ISBN:4883231658)をちょっと前に読み、観直したいと思っていたところなので、ちょうどいい機会である。スクリーンで観るのはこれが三回目。残念ながらデジタルでの上映で、客席はガラガラ。奇しくも今日は鍾浩東の命日である。

『好男好女』は、侯孝賢フィルモグラフィーの中では比較的評判が悪く、語られることも少ない作品である。その理由のひとつは、撮る前に侯孝賢が、白色テロを描くとか、蔣碧玉が主人公だとか言いふらしていたせいだ。だからできあがった映画を観てみんなとまどったし、白色テロや蔣碧玉という視点にとらわれずに、実際に撮られた映画を素直に観ることが難しくなってしまった。そういう意味で不幸な映画である。

主人公は、梁靜(伊能靜)という女優である。この映画は、梁靜が阿威(高捷)という男と付き合っていた過去と、現在の梁靜の生活と、梁靜が蔣碧玉を演じる映画“好男好女”のリハーサル・シーンと、おそらくは梁靜の想像のなかの、これから撮られる映画“好男好女”のシーンとによって構成されている。要するに『好男好女』は、梁靜が、恋人を亡くした自分の体験を重ね合わせることによって白色テロで夫を亡くした蔣碧玉を理解し、同時に蔣碧玉という役柄に入り込むことによって阿威を忘れられない自分を確認するという話である。

このような複雑な構成で、侯孝賢はいったい何を描きたかったのか。それは伊能靜である。『好男好女』は、伊能靜という女優に魅入られた侯孝賢が、彼女にいろんなことをやらせていろんな彼女を撮りたいという映画だ。そのことを表しているのは、冒頭、梁靜の部屋のテレヴィから流れている『晩春』(asin:B0009RQXJQ)である。この『晩春』の使用は、「侯孝賢にとっての『好男好女』は、小津安二郎にとっての『晩春』である」という宣言なのだと思う。『晩春』といえば、小津安二郎が初めて原節子を使った映画であり、原節子という女優を「発見」して嬉しくてたまらず、とにかく彼女を撮りたいという気持ちがあふれている映画である。『好男好女』で使われているサイクリング・シーンはその代表的なものだ。侯孝賢はそれと同様に、伊能靜を発見して、とにかく彼女を撮りますよ、ということを宣言しているのだ。そこで蔣碧玉を描くという当初の予定を変更して梁靜という役柄を導入し、彼女に歌わせたり踊らせたりして、コケティッシュな彼女やらセクシーな彼女やらを撮っているのだ。このあとの伊能靜の起用も基本的に梁靜の路線だが、私は映画中映画で蔣碧玉を演じている、ストイックな感じの彼女のほうが魅力的だと思った。結局、伊能靜は原節子にはなれず、周渝民(ヴィック・チョウ)のママになってしまったが(@“貧窮貴公子”)。(『晩春』については、テレヴィが映る前、梁靜と彼女の部屋を写しているときに笠智衆三島雅夫の声が聞こえているが(「ここ、海近いのかい?」で始まる『晩春』の名シーン)、単にあれを聞かせたかっただけという解釈も成り立つ。)

恋人/夫が(同じ日に)殺されたというところから、梁靜と蔣碧玉を重ね合わせていくというアイデア自体はおもしろいと思う。でも一番気になるのは、恋愛や子供といった視点からのみ理解されることで、鍾浩東と蔣碧玉の間にある同志的なつながりの部分が無視されてしまうこと。そしてそれと共に、政治的なコンテクストも表面に出てこなくなってしまうこと。梁靜と阿威の設定を、もっと同志的なつながりをもつようなものにすればいいじゃないかと思うが、そう考え始めると、そもそも「なぜヤクザの男と水商売の女ばかり描くのか」といった侯孝賢の不可解な部分につながっていく。『珈琲時光』ではちゃんとふつうの女性というか、自立したインテリ女性を描いていたので、やればできると思うのだが。

政治的なコンテクストが抜け落ちてしまうことで、蔣碧玉の物語はかなりわかりにくいものになっている。ほとんど予備知識のない観客は、彼らの抗日戦争への参加についても白色テロについても、よくわからないまま終わってしまうのではないか。単なる無名の白色テロ犠牲者夫婦だったとしたら、これはこれでよかったかもしれない。しかし、原作として『幌馬車の歌』の作者、藍博洲と蔣碧玉がクレジットされており、映画が50年代の白色テロの犠牲者に捧げられていることを考えると、やはりまずいのではないだろうか。彼らが抗日戦争に参加する中で左傾化していくようなところも全然描かれていない。細かいところで気になったのは、大陸に渡った蔣碧玉たちが尋問を受けるところ。原作では蔣碧玉たちが北京語で軍官が広東語なのだが、映画では蔣碧玉たちは台湾語だった。この変更にはどういう意味があるのだろう。また、当時はすでに国共合作が事実上破綻しており、彼らの拘留は表向きは日本のスパイ容疑だったが、実際は共産党との関係を疑われたためらしい。原作ではこのあたりがすごく興味深かったが、映画では単に日本のスパイ容疑となっていた。

いろいろと文句ばかり書いているようだが、私はこの映画がかなり好きである。『幌馬車の歌』を読んだことで、映画中映画の部分が非常によく理解できたこともあるし、現代の部分のちょっと重苦しい空気も忘れがたく、今回観て評価はさらに上がった。鍾浩東の遺書は、映画で観ても本で読んでも泣きそうになるが、これを最後にもってきたのは本当にずるい。そのあとのラストシーンは、冒頭と同じ映画中映画のワンシーン、大陸に渡った5人が田野を歩いているところで、これがまたすばらしすぎるロングショット。ここまで「なんだかよくわからない映画だ」と思って観ていた観客も、この遺書とロングショットのダブルパンチで、「あぁ、いい映画だった」と思って帰っていくに違いないと思うのだが、実際はそうなっていないらしいのが不思議である。

『好男好女』は、完成度の高い傑作ではないかもしれないが、侯孝賢がその後につながるような様々な試みをしている映画である。特に、それぞれの時代に翻弄される異なる時代のカップルという“最好的時光”(『百年恋歌』←この邦題やめて、頼むから)のアイデアは、この『好男好女』に端を発しているとみるべきだろう。そういう意味でも興味の尽きない映画なので、もっとみんなに観てほしい。だけどどうして松竹が製作に関わっているのに、フィルムで上映できないの?