実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『ゆれる』(西川美和)[C2006-02]

お昼前に渋谷へ行く。まずはチケットぴあで前売券を入手し、同じビルにあるシネ・アミューズと渋谷シネ・ラ・セットを回って整理券をゲット。このところ予定どおりに観られない日が続いていたので、計画どおりの整理券を手に入れてほっとする。

昼食後、西川美和監督の『ゆれる』(公式映画生活)を観にシネ・アミューズへ。渋谷での上映館は今日から変わったが、やはりものすごく混んでいる(この劇場はロビーが狭いので、満席だと開場前がかなり苦しい)。やたらと評判がいいので、混んでいるのもそのせいだと思っていたが、いざ来てみると観客の大半が若い女性。まさかオダギリジョー人気で混んでいるの?

吊り橋がゆれるとオダギリジョーがゆれ、観客もゆれる、という映画。評判に違わずすごくよくできた映画だった。ごく乱暴にまとめれば喪失と再生の物語といえるが、家族をぎりぎりのところまで壊してそこから再生させるというのは、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)の『河』を連想させたりもする。

兄弟のあいだには、無償の愛情や信頼と嫉妬や憎しみ、相手に対する親身な思いやりと冷酷な分析など、本来は矛盾するはずの様々なものが混然と同居している。ひとりの人間の中にも様々な性格が同居しており、時として他人から、あるいは自分自身にとってさえ、その一面しか認識されていない。この映画では、幼なじみの女性の転落死という事件をきっかけに、それまで見えていなかった面が徐々に露になっていく。主要な登場人物やその関係が効率よく描写されたあとに事件が起こると、事件の核心部分は見せられていないにもかかわらず、観客はすべてをわかった気になる。しかしそこから兄・香川照之が変貌しはじめ、観客の確信は徐々にゆらいでいく。香川照之の変化が、法廷や面会室、すなわち何が事実でどこまでが本音なのかがよくわからない場を中心に展開すると、その変化が次第に弟・オダギリジョーを照射しはじめる。観客と同じ場所に立っているかに思われたオダギリジョーが、次第に変貌し、観客にとってもつかめなくなっていく。小出しに見せられる事件の核心部分、被告のみならず被害者やその関係者をもさらす法廷という場の巧みな利用、複数の人物を同時に見せる法廷内の描写、そして主人公たちの自然だけどリアルな演技など、いたるところで「うまいなぁ」とつぶやいてしまう。

一方で、私にはリアルに実感できないところがある。まず第一に、私は一人っ子なので、兄弟姉妹とはどういう存在なのか、本当のところはわからない。第二に、この映画のテーマのひとつである「田舎から出て行った者VS出て行かなかった者」というところ。私も田舎から出て行った人間のひとりだが、私の場合、出て行くべく育てられ、当然のように出て行った。だから、物欲とか利便性とかいったことを抜きにすれば、出て行きたいという強烈な動機もなければ、東京へ行けば人生が変わるというような特別な期待もなかった。あり得るとは思うし、実際に昔はたくさんいただろうと思う。でも今の時代にそんなことがふつうにあるのか疑問であり、いささかステレオタイプでリアリティを欠くように思えるのだ。

私に言わせれば、自分の価値観と違っていたり、自分の体験から実感できない内容でも、疑問を抱かせずに納得させられない映画は駄目である。「いいなぁ」とか「むちゃくちゃおもろいなぁ」と感じるまえに「うまいなぁ」と感じてしまうのは、惹きこまれつつもどこか距離を置いて観ているからだ。つまり、うますぎるところ、あるいはうまいのが見えてしまうところがこの映画の欠点だと思う。すみずみまで監督の作り込む力が届いていて、映画がそれ自体として動いていないのだ。

ところで、『ゆれる』というタイトルはやはり成瀬巳喜男の影響ですよね? 前作の『蛇イチゴ』を観ていない私がこの映画を観ようと思ったのは、多分にこのタイトルのせいである。そういう人は多いのではないかと想像するが、誰も言及していないのが不思議だ。ちなみに、昼食後すぐだったうえに予告篇を含めるとけっこう長かったので、後半ものすごくトイレにいきたくなった。「ゆれる」というより「もれる」(あるいは、ゆれるともれる)という感じだ(もれてません、念のため)。私もかなり前に『たれる』というタイトルの星馬旅行記(LINK)を作ったものの、時間がなくて一日分だけで放置している。このタイトルはたいそう気に入っているので、いつか完成させたいものだ(定年後かも)。