シアター・イメージフォーラムのホセ・ルイス・ゲリン映画祭(公式)で、『影の列車』を観る。
1930年に消えたアマチュア映画監督が残したという、家族を写したプライベート・フィルム、いまは無人のそのロケ地を訪れて撮った映像、そしてそこで再現されるこの家族のドラマ。この映画は表向きそのような要素で構成されていて、それをそのまま信じるならば、これはまずロケ地めぐりの映画である。先日来日して尾道を訪れ、『東京物語』が撮られた浄土寺で、ロケ地を細かく検証していたというゲリン監督。彼には間違いなく、わたしと同じロケ地めぐり好きの血が流れている。
そういう意味でとても興味深く感じつつ、古いモノクロフィルムと対比させた美しく鮮やかな現在の映像や、再現ドラマまでやってしまうところにあざとさも感じたのだが、観終わってよく考えてみると、というか観ているときにわき起こってきた疑念をつなぎ合わせると、消えた映画監督という触れ込みも、彼が残したというフィルムも、フェイクにちがいないと気づく。
まず最初にヘンだと思ったのは、ロケ地の屋敷が撮影当時のまま無人になっているように見えたこと。いなくなったのは監督ひとりのはずなのに、まるで家族まるごと消えてしまったかのように、フィルムから抜け出してきたとしか思えない人たちの写真が飾られている。
それに、この家族を写したプライベート・フィルムがよすぎる。女性がブランコに乗っているシーンなどものすごくいいのだが、前半なにげなく「ああ、いいなあ」と思ったシーンを後半繰り返し見せられると、「これはいくらなんでも出来すぎだ」と思えてくる。さらに疑わしいのは彼女の顔だ。ゲリン好みっぽすぎる。いや、別にほかの映画に出てくる女性の顔と似たタイプというわけではないが、なにか「好みです」というオーラを顔全体から発しているのである。
そうとわかると、古びた映像と鮮やかな映像との対比も再現ドラマも、また違った意味をもってくる。メイドさんとの不倫疑惑も、まずそれを描きたいというのがあってあのプライベート・フィルムを作ったのだろう。監督の願望だろうか?
ドキュメンタリーとフィクションとの境目なんて実にあやふやなものだということは、これまでにいくつもの映画が示してきたけれど、おそらくこれがその最先端とでもいうべき映画である。しかも1997年の映画であることに驚く。実験精神と、遊び心と、趣味・好み・フェティシズムとを融合させた、他に類をみない映画。とりあえずもう一度観直してみたい。
結局、ロケ地めぐりの映画ではなくて偽ロケ地めぐりの映画だった。ロケ地めぐりの映画も観たいなあと思ったら、もしかして『イニスフリー』がそうなのか。『静かなる男』を観ていないので(ああっ、石投げないでください)今回ははずしたが、やはり観ておくべきだったのかもしれない。