実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『愛の勝利を - ムッソリーニを愛した女(Vincere)』(Marco Bellocchio)[C2009-43]

シネマート新宿で、マルコ・ベロッキオ監督の『愛の勝利を - ムッソリーニを愛した女』(公式)を観る。ムッソリーニの愛人だったイーダ・ダルセルという女性を描いた映画。

この映画のイーダは、三つの観点から見ることができる。まずひとつめは、彼女自身が唯一無二の圧倒的な存在であるということ。情熱的で好きな男にすべてを賭け、自己の主張を声高に訴えてやまない。客観的にみたらそんな彼女の生き方にはぜんぜん賛同しないのだけれど、そんなことを思う余裕すら与えない。イーダを演じているジョヴァンナ・メッゾジョルノは、若いのか老けているのか、美人なのかブスなのかよくわからないし、20年くらいの期間を演じていると思うが、歳に応じて老けメイクをしたりしているのかどうかもよくわからなかった。とにかく圧倒的な存在感で、眼に独特の光があり、スクリーン映えのする顔。イーダという女性とジョヴァンナという女優と、ダブルパンチの存在感で圧倒されまくる。

ふたつめの観点は、イーダがムッソリーニに似ているということ。イーダはムッソリーニの策略で精神病院へ入れられるが、狂ってはいない。けれどもその激しさは、多少常軌を逸している。ムッソリーニが大衆を前に演説する姿は、芝居ではなく記録フィルムの挿入によって示されているが、これもまたかなり常軌を逸している、というよりほとんどキチガイじみている。ふたりが自己の主張を熱く語る姿は、驚くほど類似して見える。しかし、イーダの言葉にはだれも耳を貸さず、ムッソリーニの言葉には国民が熱狂する。のちの時代から見れば、イーダは正しく自己の権利を追求しているが、ムッソリーニの言葉とそれに対する熱狂は滑稽だ。しかし、時代の狂気はムッソリーニを総統にし、総統はイーダを精神病院へ送ることができる。イーダとムッソリーニは、鏡像のようにお互いを映しだしながら、時代や立場によって正反対の位置に置かれている。

“Vincere(勝利)”というタイトルは、ムッソリーニが演説で繰り返す「勝利を」という言葉からきていると思われる。ムッソリーニが政治的な意味、あるいは戦争に対して用いた言葉は、またイーダがムッソリーニの妻、そして息子の母としての自分の立場と権利を求めた言葉でもある。それなのに邦題を、『愛の勝利を』というイーダの側だけのものにしてしまってはまずいのでははないか。ついでに言うと、具体的で凡庸なサブタイトルを付加することは、タイトルの品を落とし、まだ観ていない観客に、「たいしたことない映画」というイメージを与えてしまうことになる。

三つめの観点は、イーダをムッソリーニに抵抗した人、つまりファシズムに抵抗した人のメタファーとして描いているということ。劇中、ファシズムに反対する精神科医が言うように、彼女の戦略は無謀である。ほんとうに勝利を手に入れるためには、よく戦略を練って慎重にことを運ぶべきだし、時を待つことや、表向き主張を曲げることも必要だ。結局彼女は勝利することはできなかったし、だいたいあんなになりふり構わず突進するのはダサい。そう思いながら、それでもなお、声をあげることの重要性について考えさせられる。いろいろなことが起こってもなお世の中が変わらない、そればかりか二大都府でファシスト知事がのさばっている。そんな今こそ、洗練された戦略やクールな態度を捨てて、声をあげていかなければならないのかもしれない。なかなかできないけれど。

映像は全体的に暗いトーンで、夜のシーンが多いのだけれど、顔に当たるかすかな光の美しさにうたれた。

ところで、シネマート新宿でベロッキオって、なんだかとても違和感があるな。