バンガロールに来ちゃったの

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『さよなら、愛しい人』(Raymond Chandler)[B1347]

村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』読了。

さよなら、愛しい人

さよなら、愛しい人

村上春樹がチャンドラーの“Farewell, My Lovely”の翻訳を出していたなんて、ぜんぜん知らなかった。二ヵ月近くも知らずにいたとは一生の不覚である。実は『1Q84[B1344-1][B1344-2]の出版も発売の二日前に知ったし、どうやら村上春樹に関する情報収集アンテナには問題があるようだ。

この小説は、清水俊二訳の『さらば愛しき女よ[B840]を少なくとも3回は読んでいる。しかし、何度読んでもはじめてのようにおもしろい。何度読んでもこんなにめちゃくちゃおもしろい作家は、チャンドラーと夏目漱石が双璧だと思う。

翻訳は、今回は清水版と比べ読みしていないので、どちらがいいのかわからない。そのうち比べてみようと思うが、全般的には悪くないと思った。ただ、二人称で「おたく」を使うのはかんべんしてほしい。

それから、毎度のことだがタイトルがいただけない。『フェアウェル・マイ・ラブリー』でなかったのはけっこうだが、語呂が悪いでしょう、語呂が。リズム至上主義のはずの村上春樹訳だけに、よけい気になる。別に『さらば愛しき女よ』でいい。「異なる翻訳には異なるタイトルをつけて区別する」というのが村上春樹の方針のようだが、(前にも書いたが)わたしは全部同じ邦題にして邦題を定着させたほうがいいと思う。

何度も読んでいることもあり、純粋に小説を読むというより、村上春樹訳という観点から読むことになった。その結果、やはり村上春樹の原点はチャンドラーだと強く感じた。つい先日『1Q84』をBOOK 2まで読み終わったばかりなのでなおさらである。両者の類似点は、『ロング・グッドバイ』の感想(id:xiaogang:20070324#p3)でも書いたように、主人公の造型と物語の構造である。

主人公について、前回は「自分なりのルールに従って行動する主人公」と書いたが、今回特に目についたのは、仕事に対するスタンスの類似である。フィリップ・マーロウ村上春樹の主人公も、「仕事が生きがい」みたいな無粋なことは決して言わないし、一般的な意味での仕事人間ではない。しかしながら、自分の仕事に対して、かなり高いプロ意識をもっている。

物語の構造は、それ自体で自律的に存在するまでになった強固なシステムと、それに果敢に挑戦し、ある部分は解決するものの結局そのシステムを大きく変えることはできない主人公、という点が共通している。

これらの類似は、村上春樹の長篇小説全般にいえることだが、特に『さよなら、愛しい人』と『1Q84』はかなり似ているように思う。「鎖の弱い部分」とかゴムの木とかも出てきたし。発売日が一ヵ月半しかずれていないので、作業期間が重なっているはずだと思ったら、やはり「訳者あとがき」に

朝に自前の長篇小説を執筆し、午後に本書を翻訳して疲れを癒す、という日々を何ヵ月か送った。(p. 375)

と書かれていた。同時に作業していて知らず知らず影響を受けたとも考えられるが、わたしは村上春樹の自信の現われではないかと思う。二ヵ月も経たないうちに自前の新作を出す。「どうです、似ているでしょう?」と言いながら。つまり、オリジナリティにもおもしろさにも、相当の自信があるということだ。ただし『1Q84』が未完である以上、ほんとうに似ているのか、どちらがおもしろいのか、現時点で結論を出すことはできない。できないけれども、チャンドラーよりおもしろいものを書くのは、村上春樹といえども難しいのではないかと思う。

「訳者あとがき」を読んで、もうひとつ類似点を発見した。

 そのような異色を放つバイプレイヤーたちのキャラクターに比べると、例によってグレイル夫人やアン・リオーダンといった、若くて美しい女性たちの描写は、どことなく平面的で、もうひとつ現実味を欠いているように見える。(p. 370)

「あのー、それはあなたの小説のことではないですか」とわたしは声に出して言いそうになった。

もうひとつこの本を読んで思ったのは、決して過剰にならない絶妙なセンチメンタリズムが、チャンドラーの大きな魅力のひとつであるということだ。これは、初期の村上春樹にあって、最近の村上春樹からはあまり感じられないもののような気がする。

最後に、村上春樹は校正レベルのミスのあるような本は出さないというイメージがあるが、今回は「まだすすり泣きがまだ聞こえていた(p. 261)」という箇所があったのを指摘しておく。