実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『村上春樹のなかの中国』(藤井省三)[B1237]

村上春樹のなかの中国』読了。

村上春樹のなかの中国 (朝日選書 826)

村上春樹のなかの中国 (朝日選書 826)

村上春樹のなかの中国」と「中国のなかの村上春樹」について論じた本。「村上春樹のなかの中国」は村上春樹の作品にみられる中国からの影響について、「中国のなかの村上春樹」は、中華圏における村上春樹の受容について。どちらも興味深いが、特に関心があるのは「村上春樹のなかの中国」のほうである。

私の関心が、圧倒的にアジアや中華圏に向かっていったころ、村上春樹の小説の中に出てくる風俗はまだ西洋中心であり、さらに村上春樹が中華料理が嫌いと聞いて、一時彼の小説に対する関心を失いそうになった。そこに『ねじまき鳥クロニクル[B257-1][B257-2][B257-3] (asin:4101001413asin:4101001421asin:410100143X)が登場して私を連れ戻しただけでなく、私が満洲に関心をもつきっかけのひとつともなった。最近、『羊をめぐる冒険[B500-上][B500-下](asin:4062749122asin:4062749130)を何度目かに再読して、満洲の存在感の大きさに気づいて驚いたが、あらためて考えてみれば、彼の小説にはたしかに中国がたくさん存在している。

村上春樹のなかの中国」では、まず魯迅からの影響が指摘されており、これは今まで知らなかったので衝撃だった。実は魯迅はあまり読んでいないので(北京や上海を舞台にした小説が意外と少ないもので…)、今さらだけれど『阿Q正伝』などを読まなければ。もう一点、中国侵略の記憶の問題が指摘されていて、これはイアン・ブルマも『イアン・ブルマの日本探訪 - 村上春樹からヒロシマまで』[B233](asin:4484981173)で指摘しているが、日本ではほとんど論じている人がいないのではないか。『村上春樹論 - 『海辺のカフカ』を精読する』[B1144]など、戦争責任に関して正反対ともいえる解釈をしているものさえある。この本のなかでは、主に『中国行きのスローボート』が分析対象となっているが、短篇は一度ずつしか読んでいないので、これも読み直さなければと思う。私としては、主に長篇を対象に、中国に関する記述を網羅的にピックアップして分析してくれると嬉しい。この本は研究の最初の成果ということなので、今後そういったものが出てくることを期待したい。

最終章では、魯迅村上春樹とつながる影響の連鎖として王家衛(ウォン・カーウァイ)が取り上げられている。村上春樹王家衛というのはよく指摘されているが、魯迅王家衛というのは新鮮で、『阿Q正伝』と“阿飛正傳”(『欲望の翼[C1990-36](asin:B000EZ82YM))の類似に気づかなかったのは不覚である(『理由なき反抗』の中文タイトルであることはよく指摘されているのだけれど)。

「中国のなかの村上春樹」に関しては、これまでにも指摘されていた「経済成長踊り場の法則」や「ポスト民主化運動の法則」に基づいて(「時計回りの法則」というのは単なる偶然だと思うので、あまり主張しないほうがいいと思う)村上春樹の受容について語ったもので、あまり目新しさはない。内容的にも概ね納得できるが、いずれ日本での受容との比較も必要だろう。そもそも私は、村上春樹の日本での受容の理由を全然知らない。また、彼と同世代の、日本の全共闘世代や、台湾、香港の古い民主化運動世代、中国の紅衛兵世代などにはそれほど受容されていないのではないかと思われるが、そのあたりの分析もほしいところである。

ところで、民主化運動の挫折などとの関わりにおいて村上春樹の受容を論じるとき、「癒し」という言葉を用いるのはいかがなものかと思う(香港の批評家の指摘だと書かれているので、著者自身の言葉ではないのかもしれないが、はたして原文も「癒し」にあたる言葉だったのだろうか)。私のイメージからいえば「癒し」というのは後ろ向きなもので、問題が何も解決していないのに癒されてしまっては、村上春樹風に言うと「どこへも行けない」のではないか。この本の中では、自分の体験と重ね合わせての共感とか、自分の喪失感の原因を探っていくとか、もう少し具体的、個別的なことが書かれていて、それは決して「癒し」ではないと思うし、安易にキャッチーな言葉でまとめてしまうことに、もう少し慎重になってもらいたいと思う。

最後に、「おいおい」と思ったところを挙げておく。

  • 石原莞爾に「いしはらかんじ」とふりがながつけられていた(p. 70)。
  • “電影双周刊”が『キネマ隔週報』と書かれている(p. 128)。註に原名が書かれているとはいえ、固有名詞を訳すなと言いたい。

ところで、村上春樹とは全然関係ないのだが、村上春樹の読書をめぐる台湾人学者(李明璁)の回想(キーワードは「想像力」)のなかに、興味深い記述があったので引用しておく。台湾の民主化はいいけれど、台湾人ナショナリズムには辟易している私にとって、「なるほど」と思う内容である。

…………九〇年代半ばに遡れば、ネーション創出よりも社会的平等により多くの関心を抱いていた私にとって、実はその時期は民進党がこの一〇年の中で最も「進歩的」である可能性を持っていた時期である。当時の一連の福利国家の主張は、民進党がこの島にヨーロッパ社会民主主義体制を出現させうるかもしれない優れた想像力を展開していた。
 惜しいことに、俗に媚びる選挙主義がたちまちこのような想像力を埋没させてしまい、これに取って代わったのがナショナルアイデンティティの闘いであり、たやすく動員できて大して想像力がいらない新路線であった。(p. 102)