実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『タイヨウのうた』(小泉徳宏)[C2006-01]

簡単な昼食のあと、東劇へ移動。『タイヨウのうた』(公式)を観る。けっこうヒットしているという噂だが、劇場はガラガラだった。

この映画を観ようと思った理由は三つある。

  1. 爾冬陞(イー・トンシン)監督の『つきせぬ想い』のリメイクであること。
  2. 鎌倉ロケ映画であること。
  3. 逗子・小坪のイタリア料理店、ピッコロ・ヴァーゾが出てくること。

どれもいささか理由不足だったが、先日、ピッコロ・ヴァーゾの堀さんに観ると言ってしまったので(id:xiaogang:20060708#p1)観てみた。比較的落ち着いた画面でていねいに作られているのと、「泣ける映画」と言われているけれど露骨なお涙頂戴ではないところは好感をもった。だけどそれ以上の何かがない。YUIの歌にかなり依存している映画なので、それが気に入るかどうかが評価を大きく左右すると思われるが、危惧していたとおり、私は興味がもてなかった。

つきせぬ想い』に関しては、そのままのリメイクではなかった。ヒロインが歌がうまいとか、夜の街を徘徊するとかいうところだけ持ってきたようだ。『つきせぬ想い』は、失意の作曲家、劉青雲(ラウ・チンワン)が音楽の好きな明るい少女、袁詠儀(アニタ・ユン)と出会い、自信を取り戻していくというものだが、『タイヨウのうた』にはそれはない。塚本高史はただの高校生で、存在感がうすい。両親、特に母親の麻木久仁子の存在感もうすい。そのぶんYUIが中心となるが、では彼女の何が描かれていたのかというと、「何だったかな?」という感じである。

主要な登場人物が死ぬ映画で、いい映画かどうかを決める基準として、

  • 死ぬところが直接描かれていないこと
  • 残された人が遺体にすがって泣かないこと

というのがある。『つきせぬ想い』も「泣ける映画」と言われているが、この条件を満たしていて、安易なお涙頂戴映画ではない。母親の馮寶寶(フォン・ボーボー)が街角の舞台に立ち、劉青雲が饅頭アメを探して街を歩き回っているあいだに、袁詠儀はひとりで死んでいく。そこがいい。『タイヨウのうた』もYUIが死ぬシーンはないが、こちらはあまりにもあっさりしすぎ。

鎌倉ロケは、びっくりするほど知っているところだらけだった。なのに鎌倉の空気といったものが感じられない。夕方になるとがらんとして真っ暗になってしまう小町通りなどは、にぎわっているところしか知らない人には新鮮だと思うけれど、いまひとつ感じが出ていない。ローカル色満載なところも『つきせぬ想い』の魅力のひとつだが、『タイヨウのうた』はこれだけ全面的に鎌倉ロケをしているのに、ローカル色が出ていないのも残念だ。たしか冒頭で煎餅を焼いているところが映っていたが、鎌倉に住んでいる人はみんな、「あんなの鎌倉名物でもなんでもない」って言っているしね。

ピッコロ・ヴァーゾはクレジットが「ピッコロバーゾ」になっていたがいいのか? ピッコロ・ヴァーゾの出てくるシーンはたしか3回。もうちょっとおいしそうなものがばーんと映ってほしかった。堀さんがお客さん役で出て、岸谷五朗に「予約でいっぱいですから」と冷たく断られるシーンがあったらよかったのに。