実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『世界は村上春樹をどう読むか』(文學界2006年6月号)

村上春樹の翻訳者を集めて開かれた国際シンポジウムの採録。ワークショップ1「翻訳の現場から見る村上ワールドの魅力」(案内人:柴田元幸沼野充義)、ワークショップ2「グローバリゼーションのなかの村上文学と日本表象」(案内人:藤井省三四方田犬彦)の二部から成る。

ワークショップ1は、スピーカーが『スパナ』と『夜のくもざる』の2篇の短篇を翻訳して、それをもとに語るというもので、村上ワールドの魅力というより翻訳の難しさがテーマ。翻訳しにくい点として、固有名詞、擬音語、時制、文字種の使い分けなどが挙げられていて、翻訳の問題としてはかなり一般的だと思うが、なかなかおもしろかった。私が考える村上文学の魅力のひとつは固有名詞の多用だが、これについては、その国で全く知られていないものや違う名前になっているものが問題にされ、様々な意見が出ていた。私は、その固有名詞もそれが指し示す物も全く知らなくても、そこに固有名詞が書かれていることが重要であり、安易に変えるべきではないと思う。それに今は、インターネットで検索すれば、たいてい(自分がわかる言語であるかどうかは別として)何らかの説明を得ることができる(でもどれだけ説明を読んでもわかったことにはならないのがまた固有名詞の奥の深いところである)。

ワークショップ2は、なぜ村上文学が世界中で受け入れられているのかという点について語ったもの。案内人の提起した村上文学の文化的無臭性という問題に対して、これに反するものを多く含んだ、国によって異なる様々な意見が出ていて興味深い。日本に対するイメージや国民感情の違いと、村上文学の主人公と似たような経験をした世代の違いという二つの軸があるようだ。東アジアの翻訳者が、村上春樹の中国へのこだわりに対して敏感に反応しているのも興味深い。

私は、村上文学の受容あるいは村上春樹ブームに関して分析したものをそれほど読んだことはないが、たまに目にするかぎりではかなり表層的な分析のように感じていたので、ここで多様な要因が語られているのをとても興味深く読んだ。村上文学を本来受容しそうな層と実際に受容している層にはずれがある(実際に受容している層のほうが広い)と思うのだが、従来の分析はこのずれの部分に注目した分析であり、今回出ている意見は、各翻訳者の村上春樹理解をかなり反映したものであって、「適切な読者」(そんな言い方をしていいのかどうかわからないが)に関する分析である、それが異なった結論として出ているといえるのかもしれない。

ところで、ワークショップ2の最後の四方田氏の問いについて、「内田樹の研究室:『冬ソナ』と村上春樹の世界性」(LINK)で「言いがかり」と書かれているけれども、私は単に、「主要な言語で読まれているだけで「世界で読まれている」と言ってしまっていいのか」ということだと受け取った。実際、このシンポジウムのスピーカーには、スペイン語アラビア語ヒンディ語の翻訳者はいないわけで、このうちどの言語の翻訳があってどの言語はないのか知らないが、これらがなければ割合としてはかなり少ないということになる(話者の多い言語だけカヴァーすればいいと言いたいわけでは決してない)。個人的には中国大陸の翻訳者がいないのがとても気になる。