実録 亞細亞とキネマと旅鴉

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『なつかしの顔』(成瀬巳喜男)[C1941-S]

フィルムセンターの特集「再映:よみがえる日本映画/生誕百年 映画監督 吉村公三郎」(公式)で、成瀬巳喜男監督の短篇、『なつかしの顔』を観る。東日本大震災の直後に観る予定だったのが、休館になってしまってショックだったが、お役所にしてはめずらしく、年間スケジュールを変更して再映されることになった。

農村に暮らす小学生の弘二(小高たかし)が物語の主人公。一見牧歌的な美しい村だが、実は若い男、働きざかりの男はみな出征して女と子供と老人しかいない。弘二の家もお兄さんが出征し、お義姉さんのお澄(花井蘭子)と、赤ちゃんと、お母さん(馬場都留子)の4人暮らし。近くに連隊か何かあるらしく、時おり兵隊さんが行進していたり、飛行機が飛んできたりするのが美しい村に不吉な影を落としているが、弘二はそんな飛行機に憧れるお年ごろ。

裕福なお友だちがよく飛ぶ飛行機のおもちゃを持っているが、なかなか弘二には貸してくれない、というところから映画は始まる。まずは、弘二が飛行機を借り、木に引っかけてしまい、それを取ろうとして木から落ちて怪我をする、という出来事が、弘二が飛行機を飛ばすシーンも、木に引っかけるシーンも、木から落ちるシーンもなしに描かれ、サスペンスのように我々を映画に引き込んでいく。やがて出征中のお兄さんが写っているニュース映画が隣町でかかっている、という話へと移っていくのだが、はたして弘二は飛行機を買ってもらえるのか、そして彼らは映画に映ったお兄さんを見ることができるのか。サスペンスタッチで綴られる、緊迫の34分である。

成瀬なので、やっぱりお金の話である。友だちに「高いんだぞ」と言われた弘二は、ミノルやイサムのように「買っとくれよ、飛行機」なんてことは言わない。言わないけれど、お母さんもお義姉さんもちゃんと知っている。まずお母さんが映画を観に行く。「活動は夜からなのに、はりきって今から出かけて行くなんて」とお義姉さんが笑う台詞がある。なにげなく聞き流してしまいそうだけど、お母さんはバス代を浮かして飛行機を買おうとして早く出かけたことがやがてわかる。お母さんは自分の自由になるお金はぜんぜん持っておらず、必要なお金だけを家計を預かる嫁からもらってきており、バス代≧飛行機代でなければ買うことはできない、ということもやがてわかる。飛行機は80銭で、バス代はわからないが、結局彼女は飛行機を買えない。

お母さんにとって息子の顔を見ることは、悪いけどもうひとりの息子のおもちゃよりも大事なので、映画を観ないという選択肢はない。映画を観るとき、何か大事な場面を見逃してしまうんじゃないか、重要なことに気づかないんじゃないか、そういった恐怖はいつもある。お芋を食べながら映画のはじまりを待つお母さんのまわりには、そんな空気が嫌というほど漂っていて、観ているこちらが息苦しくなる。映画が始まると、見逃す恐怖は脅迫観念のように襲ってくる。そうして予想どおり、お母さんは見逃すのであった。もちろん、家族には見たことにしておく。

次はお義姉さんの番。赤ちゃん連れなので、バス代はケチらない。軒先に飛行機をぶら下げたおもちゃ屋さんと、まだ始まらない映画館の前を行ったり来たりうろうろするお義姉さん。映画館で始まりを待つ近所の親子は、お澄さんも来ていると聞いたのに、彼女を見つけることができない。映画代がいくらなのかはわからないが、やがてお義姉さんは飛行機を手に帰ってくる。もちろん家族には見たことにする。しかし、彼女から詳しい内容を聞いて話を合わせようと画策していたお母さんは、彼女の曖昧な説明に不満だ。

友だちの話から飛行機代の出どころを推測した弘二に、お義姉さんはわかるようなわからないような、戦時中らしい説明をする。これはおそらく検閲対策である。彼女がほんとうはどう思ったか、ほんとうは映画が見たかったのかはっきりとはわからない。しかし夫が出ているニュースは別に見なくてもいい気もする。片思いの相手とかならそりゃあ見たいけれど、夫だったら元気とわかれば見ても見なくてもいい。むしろ見るのは気まずい。ただし、すごく恥ずかしい顔で写っていたりするといけないので、やはり確認のために見たほうがいい。とわたしなら思うな。ちなみに、映画を借りて村で上映することになり、結局みんなはお兄さんの顔を見ることができる。でも、「あのときニュースで見たのが最後だったわねえ」なんてことにならなきゃいいけど。